尼寺(にじ)は虹のかなた
台風が過ぎ去ったが、遠く離れたこの地でも時より強い風が吹いています。
昨日は朝早く散歩に出ていつもの公園に着いた頃に雨が激しくなり小降りになるまで雨宿り。
あまり風雨が激しいので公園内の屋根付きベンチや木の下では雨宿りどころではなく、あっちこっちに渡り歩いてどうにか屋根のある小屋で雨の上がるのを待ちました。
さすがにこんな日は歩いている人もほとんどなく、小雨と思って車でやってきた人も早々に帰っていってしまい早朝の公園で一人さびしく30分以上ぼんやりと雨の落ちる様を眺めておりました。
風が強くなると木々からの雨だれも加わって一層激しく地面をたたきつけます。
雨粒の跳ね上がる様や風に舞うその様を最初は面白く見ていたのですが、そのうちにあたり一面湖のように水がたまっていきます。
傘を持たずに家を出たのを後悔しても後の祭り・・・。
朝5時半頃から6時頃まで雨の止むのを待ちましたがとうとう我慢ができずに、少し小降りとなった頃を見計らって公園から飛び出し急ぎ足で我が家を目指しました。
しばらくすると雨もほとんど止み始め、途中の田んぼの水路は水が勢いよく流れ一部であふれて田んぼに流れ込んでいました。
お米も収穫間際ですのでこの程度なら被害も少なかったと思いますが、各地から聞こえてくる大雨による水害、土砂崩れ、竜巻のような突風での被害報告を見るにつけ心が痛みます。
四国は大変な雨量で飛行機、船のみならず鉄道もみな止まり、各地で避難勧告が出されました。
さて、今日は朝から風は強いですが夏の暑い日差しが戻ってきました。
そのとたんにジメジメした湿気があるのでパソコンに向かいながらも噴き出る汗を拭きながら5年目のブログの初記事を書いています。
まあ勤めの仕事は夏休みとなり今週は休みなので家でノンビリ出来そうです。
昨日午前中に「まちかど情報センター」に用事があっていってきました。
センターの白井さんと雑談をしながら情報もいただきました。
金刀比羅神社境内に正岡子規の句碑が建てられ、10月10日の例大祭で除幕式をするそうです。選ばれた句は
「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」
だそうです。
私は「白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體」の方がいいなと思いましたが、神社の品位もあるのでやむを得ないのか・・・・
まちかど情報センターのすぐ前の駐車場とその隣のカギヤ楽器さんのあたりに子規が泊まった「万屋」旅館があったのです。
是非この場所に句碑や「足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす」などの水戸紀行に書かれた文を紹介してほしいと前から思っているのですがなかなか実現しません。
しかし、これがなかなか難しい(センターの所有地ではなく借地?)ようだ。
でもこんなことはその気になれば多くの賛同さえ得られれば実現できるはずだと思っている。
また、日曜までと言うお化け屋敷は午後2時からということで、始まる前の内部をのぞかせてもらった。
あまりお化け屋敷も浅草で懲りたのでもう行かないと決めているのだが、幽霊の人形などがでてくるだけならそれほど怖くないが、これが生身の人間(例え小さな子供でも)が隠れているのはどうにも気持ちが悪い。
今回も地元の小学生などが何人も中に隠れていて、足を触ったりするとか・・・。 気持ち悪いね。
今回のテーマが国分尼寺に伝わる「ごき(御器)洗い池」の話だそうです。
この話もここ常陸国分尼寺がどのように姿を消したのかが良く分かっていませんの何時の話だか・・・
平将門に寺や尼僧が蹂躙される前に(または佐竹軍に城を焼かれ、寺も焼かれそうになった時に)寺の中の仏像、経典、財宝などを全て池の中に投げ込み、その後寺は焼けてその瓦礫で池は埋もれてしまった話である。話はもちろん尾ヒレがついてその財宝を掘りだそうとした欲深な男が崩れた土砂の下敷きになって死んでしまう。・・・
しかし、この尼寺の話もこれはこれとして残して良いが、もう少し本当の姿を検証して残してもらいたいと思っている。
国分寺と国分尼寺との間にはどんな交流があったのだろうか?
先日もこの間を通っていたであろう昔の脇道を探しながら歩いてみた。
また萩の花の咲く頃に尼寺をゆっくり散策して見たい。

(常陸国分尼寺跡 7月8日朝 撮影)
羽鳥屋菓子店さんで「尼寺のときめき」という菓子をつくっている。
そのパンフレットに書かれているお話も紹介しておきます。
・ 伝説「尼寺のときめき」(羽鳥屋菓子店しおり)
それは千年も昔の出来事。満月の夜が近づくと国分寺の比丘尼(びくに)たちはいつもそわそわしておった。僧都(そうず)様の寝静まったころ、尼寺の食堂(じきどう)に集まった若い比丘尼は、廻廊の外でフクロウの鳴くのを待った。ホー、ホーという声がすると、土塀の外から布の丸い包みがポーンと投げこまれた。
若い比丘尼がそれを拾い、中身を小鉢に移してから、布を投げかえす。月明かりに照らされた美しい比丘尼は、小鉢の中の手紙だけをとってそっと胸元にはさんだ。
「ほら、今宵も《ときめき》が届きましたわ」と彼女は、まわりの比丘尼たちに小鉢の菓子をくばった。全員がいつくしむようにその菓子を食べる。部屋の中に、うっすらと酒の香がただよった。虫の鳴き声に交じって、彼女たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。
ふるさと、家族、そして恋の話と、おしゃべりはつきることがない。
月が低くなったころ、若い比丘尼は手紙を開いた。府中の若者からの手紙には、いつも彼女への恋心がつづられていた。ところがその晩にかぎって内容は違っていた。
〝将門の大軍が攻めてくる。町はすべて焼かれる。十七夜までに、逃げなさい〟
はたして、将門は手紙どおりに襲ってきた。僧侶は兵士に命ごいをし、役人は泥の上にひざまづいた。尼寺も、同じように焼かれたが寺の仏像や金銀は、《ごき洗いの池》へ前もって沈められた。尼寺に残ったものは、おびただしい焼け瓦と礎石だけであった。数年して、若い男女が草だらけの尼寺ヶ原を訪れ、歌をよんだ。
尼寺ヶ原 石見に来れば 道もなし 足にまかせて 尋ねこそすれ
満月の夜のあの《尼寺のときめき》を知る者は、もう誰もいない。
(本文は2009年7月に風の会のメンバーである 兼平ちえこさんが「歴史ガイドに同行して」の中で紹介されたものをお借りしました。)
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昨日は朝早く散歩に出ていつもの公園に着いた頃に雨が激しくなり小降りになるまで雨宿り。
あまり風雨が激しいので公園内の屋根付きベンチや木の下では雨宿りどころではなく、あっちこっちに渡り歩いてどうにか屋根のある小屋で雨の上がるのを待ちました。
さすがにこんな日は歩いている人もほとんどなく、小雨と思って車でやってきた人も早々に帰っていってしまい早朝の公園で一人さびしく30分以上ぼんやりと雨の落ちる様を眺めておりました。
風が強くなると木々からの雨だれも加わって一層激しく地面をたたきつけます。
雨粒の跳ね上がる様や風に舞うその様を最初は面白く見ていたのですが、そのうちにあたり一面湖のように水がたまっていきます。
傘を持たずに家を出たのを後悔しても後の祭り・・・。
朝5時半頃から6時頃まで雨の止むのを待ちましたがとうとう我慢ができずに、少し小降りとなった頃を見計らって公園から飛び出し急ぎ足で我が家を目指しました。
しばらくすると雨もほとんど止み始め、途中の田んぼの水路は水が勢いよく流れ一部であふれて田んぼに流れ込んでいました。
お米も収穫間際ですのでこの程度なら被害も少なかったと思いますが、各地から聞こえてくる大雨による水害、土砂崩れ、竜巻のような突風での被害報告を見るにつけ心が痛みます。
四国は大変な雨量で飛行機、船のみならず鉄道もみな止まり、各地で避難勧告が出されました。
さて、今日は朝から風は強いですが夏の暑い日差しが戻ってきました。
そのとたんにジメジメした湿気があるのでパソコンに向かいながらも噴き出る汗を拭きながら5年目のブログの初記事を書いています。
まあ勤めの仕事は夏休みとなり今週は休みなので家でノンビリ出来そうです。
昨日午前中に「まちかど情報センター」に用事があっていってきました。
センターの白井さんと雑談をしながら情報もいただきました。
金刀比羅神社境内に正岡子規の句碑が建てられ、10月10日の例大祭で除幕式をするそうです。選ばれた句は
「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」
だそうです。
私は「白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體」の方がいいなと思いましたが、神社の品位もあるのでやむを得ないのか・・・・
まちかど情報センターのすぐ前の駐車場とその隣のカギヤ楽器さんのあたりに子規が泊まった「万屋」旅館があったのです。
是非この場所に句碑や「足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす」などの水戸紀行に書かれた文を紹介してほしいと前から思っているのですがなかなか実現しません。
しかし、これがなかなか難しい(センターの所有地ではなく借地?)ようだ。
でもこんなことはその気になれば多くの賛同さえ得られれば実現できるはずだと思っている。
また、日曜までと言うお化け屋敷は午後2時からということで、始まる前の内部をのぞかせてもらった。
あまりお化け屋敷も浅草で懲りたのでもう行かないと決めているのだが、幽霊の人形などがでてくるだけならそれほど怖くないが、これが生身の人間(例え小さな子供でも)が隠れているのはどうにも気持ちが悪い。
今回も地元の小学生などが何人も中に隠れていて、足を触ったりするとか・・・。 気持ち悪いね。
今回のテーマが国分尼寺に伝わる「ごき(御器)洗い池」の話だそうです。
この話もここ常陸国分尼寺がどのように姿を消したのかが良く分かっていませんの何時の話だか・・・
平将門に寺や尼僧が蹂躙される前に(または佐竹軍に城を焼かれ、寺も焼かれそうになった時に)寺の中の仏像、経典、財宝などを全て池の中に投げ込み、その後寺は焼けてその瓦礫で池は埋もれてしまった話である。話はもちろん尾ヒレがついてその財宝を掘りだそうとした欲深な男が崩れた土砂の下敷きになって死んでしまう。・・・
しかし、この尼寺の話もこれはこれとして残して良いが、もう少し本当の姿を検証して残してもらいたいと思っている。
国分寺と国分尼寺との間にはどんな交流があったのだろうか?
先日もこの間を通っていたであろう昔の脇道を探しながら歩いてみた。
また萩の花の咲く頃に尼寺をゆっくり散策して見たい。

(常陸国分尼寺跡 7月8日朝 撮影)
羽鳥屋菓子店さんで「尼寺のときめき」という菓子をつくっている。
そのパンフレットに書かれているお話も紹介しておきます。
・ 伝説「尼寺のときめき」(羽鳥屋菓子店しおり)
それは千年も昔の出来事。満月の夜が近づくと国分寺の比丘尼(びくに)たちはいつもそわそわしておった。僧都(そうず)様の寝静まったころ、尼寺の食堂(じきどう)に集まった若い比丘尼は、廻廊の外でフクロウの鳴くのを待った。ホー、ホーという声がすると、土塀の外から布の丸い包みがポーンと投げこまれた。
若い比丘尼がそれを拾い、中身を小鉢に移してから、布を投げかえす。月明かりに照らされた美しい比丘尼は、小鉢の中の手紙だけをとってそっと胸元にはさんだ。
「ほら、今宵も《ときめき》が届きましたわ」と彼女は、まわりの比丘尼たちに小鉢の菓子をくばった。全員がいつくしむようにその菓子を食べる。部屋の中に、うっすらと酒の香がただよった。虫の鳴き声に交じって、彼女たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。
ふるさと、家族、そして恋の話と、おしゃべりはつきることがない。
月が低くなったころ、若い比丘尼は手紙を開いた。府中の若者からの手紙には、いつも彼女への恋心がつづられていた。ところがその晩にかぎって内容は違っていた。
〝将門の大軍が攻めてくる。町はすべて焼かれる。十七夜までに、逃げなさい〟
はたして、将門は手紙どおりに襲ってきた。僧侶は兵士に命ごいをし、役人は泥の上にひざまづいた。尼寺も、同じように焼かれたが寺の仏像や金銀は、《ごき洗いの池》へ前もって沈められた。尼寺に残ったものは、おびただしい焼け瓦と礎石だけであった。数年して、若い男女が草だらけの尼寺ヶ原を訪れ、歌をよんだ。
尼寺ヶ原 石見に来れば 道もなし 足にまかせて 尋ねこそすれ
満月の夜のあの《尼寺のときめき》を知る者は、もう誰もいない。
(本文は2009年7月に風の会のメンバーである 兼平ちえこさんが「歴史ガイドに同行して」の中で紹介されたものをお借りしました。)


そのようなお話が秘められていたとは興味深いです(^^)
国分尼寺炎上のお話が今年のお化け屋敷のモチーフにされたようですね
石岡にはいろいろな伝説がたくさんあって、知れば知るほど面白いですね^^
> 国分尼寺の「尼寺のときめき」のお話、とてもロマンチックですね
このお話は確かにあまり知られていませんね。少し造られたような気もしますが面白いです。
> 国分尼寺炎上のお話が今年のお化け屋敷のモチーフにされたようですね
国分尼寺の敷地の隣の小学校の子供もいてこのテーマにしたらしいです。
前にここの校長先生をしていた方からメールを頂きました。
「にじがはら」といわれている場所ですが、多くの子供達は虹がきれいな場所だからそう呼ばれていると思っていたので、校長室にここの歴史の勉強を子供達とした資料を飾ったと言っていました。
見に来て下さいと言われたのですが行くチャンスがなくそのままです。
石岡には本当はいろいろお話があるはずなのですが、どういうわけかあまりまとまった物がありません。
こんなのをもっと調べてまとめたら面白いと思います。コメントありがとうございました。