「おはぐろさま」と「にじがはら」
石岡に10年ほど前に越して来た時に「にじがはら」という地名を聞いて何の事かわからなかった。
それは尼寺ヶ原=にじがはら であった。
聖武天皇が西暦741年に全国の国府に国分寺と国分尼寺建立の詔が発せられ、奈良には東大寺と法華寺を建立した。
ここ常陸国は国府である現在の石岡(旧常陸府中=常府)に国分寺と国分尼寺をその10年後くらいに建立されたものと考えられています。
国分寺は「護国之寺」であり、国分尼寺は光明皇后の意向を反映し「法華滅罪之寺」というのが正式な名称となっています。
当時仏教を普及させて国の安泰を図ろうとしたと思われます。
国の史跡でもとくに重要なところを「特別史跡」として認定しています。
茨城県には3カ所指定され、水戸の旧弘道館とここ石岡の常陸国分寺跡、常陸国分尼寺跡だけです。
昨日尼寺に伝わる話や伝説のようなことを書きましたが、平将門の国府襲撃(939年)に3000もいた国府の軍をたった1000人の兵でたたきのめし、国府の役人などはひれ伏して詫び、集めていた財宝(絹など)は皆奪われ、女たちは好きなようにされ寺もほとんどが焼かれてしまいました。
この国分寺や国分尼寺も例外ではなくことごとく火を放たれ無残な姿に変わってしまいました。
それから再建されたように思われますが、その600年後までこの地を治めることになった大掾氏(だいじょうし)=平氏も1590年に佐竹氏により滅ぼされたときに同じように兵火に包まれてしまいました。
私はこの600年の間に国分尼寺がどのような状態で存在していたのか、それとも無かったのかが良く分かりません。
それほど何もかもないのです。
あったとしても民衆の心のよりどころとしては存在は薄かったのだと思います。
このブログを書きはじめた4年前に「石岡にある羽黒の地名」(こちら)で書いた羽黒の地名について気になる石碑を見つけました。

場所は国分尼寺跡参道(今の入口よりももう少し鹿の子C遺跡の方にいったところ)入口と常磐高速に架かる「羽黒西橋」の中間あたり。
個人的に設置されたようにも見受けられますが、この羽黒の地名を残したいと言う思いが伝わってきました。

どうもこのあたりに「羽黒神社」のような祠が置かれていたようです。(推測)
それを高速道路建設のために撤去されたのではないでしょうか。
そしてすぐ隣が地下の正倉院とまで言われる鹿の子C遺跡の場所です。
蝦夷征伐の際の武器を製造する工場であったと思われる場所です。
ここから東北の方に官道も造られたと推測される場所です。

「にじがはら」というとロマンチックに響きますので、これはこれとして楽しめば良いのですが、石岡の市街地にある寺もかなり多くがこの尼寺ヶ原(にじがはら)辺りに最初あったが、町を形成するたびに少しずつ移されていったように思われます。
たとえば佐竹氏の菩提寺となった「清涼寺」は1330年頃に尼寺ヶ原に建てられ、1480年頃に現在地に移されました。
また松平家の菩提寺「照光寺」も1374年に鹿の子に建てられ、1590年の大掾氏滅亡の時に寺は焼かれ、佐竹氏の支配となってから現在の場所に再建されたようです。

何故、この尼寺ヶ原と羽黒の名前にこだわるかと言うのは、出羽三山で知られる羽黒山には東北地方で最も古いと言われる五重の塔が存在し、この塔を建立したのが平将門だといわれているからなのです。
この五重の塔はその後に再建されたもので、将門が建てたと言われているものが同じようなものかどうかはわかりませんが、羽黒山の信仰と将門信仰がどのようにこの地に影響を及ぼしているのかが興味があるからです。
もっとも羽黒山を信仰としていたのはその後もたくさんあり、各地に羽黒山に行った記念に石碑を建てたり、祠を作ったりしていたことはよく見かけます。
今では神社の境内に置かれていたりするのでこのような事と同じかもしれません。
羽黒山では妙見菩薩信仰があり、石岡にはあまりにられない千葉氏や相馬氏などの人たちがひそかに信仰していたのかもしれません。
石岡の入口にあたる幸町(旧名:土器町)にも羽黒祠があったようですがこれはどこに行ったのでしょうか?
また気がついた時に書いていきたいと思います。
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それは尼寺ヶ原=にじがはら であった。
聖武天皇が西暦741年に全国の国府に国分寺と国分尼寺建立の詔が発せられ、奈良には東大寺と法華寺を建立した。
ここ常陸国は国府である現在の石岡(旧常陸府中=常府)に国分寺と国分尼寺をその10年後くらいに建立されたものと考えられています。
国分寺は「護国之寺」であり、国分尼寺は光明皇后の意向を反映し「法華滅罪之寺」というのが正式な名称となっています。
当時仏教を普及させて国の安泰を図ろうとしたと思われます。
国の史跡でもとくに重要なところを「特別史跡」として認定しています。
茨城県には3カ所指定され、水戸の旧弘道館とここ石岡の常陸国分寺跡、常陸国分尼寺跡だけです。
昨日尼寺に伝わる話や伝説のようなことを書きましたが、平将門の国府襲撃(939年)に3000もいた国府の軍をたった1000人の兵でたたきのめし、国府の役人などはひれ伏して詫び、集めていた財宝(絹など)は皆奪われ、女たちは好きなようにされ寺もほとんどが焼かれてしまいました。
この国分寺や国分尼寺も例外ではなくことごとく火を放たれ無残な姿に変わってしまいました。
それから再建されたように思われますが、その600年後までこの地を治めることになった大掾氏(だいじょうし)=平氏も1590年に佐竹氏により滅ぼされたときに同じように兵火に包まれてしまいました。
私はこの600年の間に国分尼寺がどのような状態で存在していたのか、それとも無かったのかが良く分かりません。
それほど何もかもないのです。
あったとしても民衆の心のよりどころとしては存在は薄かったのだと思います。
このブログを書きはじめた4年前に「石岡にある羽黒の地名」(こちら)で書いた羽黒の地名について気になる石碑を見つけました。

場所は国分尼寺跡参道(今の入口よりももう少し鹿の子C遺跡の方にいったところ)入口と常磐高速に架かる「羽黒西橋」の中間あたり。
個人的に設置されたようにも見受けられますが、この羽黒の地名を残したいと言う思いが伝わってきました。

どうもこのあたりに「羽黒神社」のような祠が置かれていたようです。(推測)
それを高速道路建設のために撤去されたのではないでしょうか。
そしてすぐ隣が地下の正倉院とまで言われる鹿の子C遺跡の場所です。
蝦夷征伐の際の武器を製造する工場であったと思われる場所です。
ここから東北の方に官道も造られたと推測される場所です。

「にじがはら」というとロマンチックに響きますので、これはこれとして楽しめば良いのですが、石岡の市街地にある寺もかなり多くがこの尼寺ヶ原(にじがはら)辺りに最初あったが、町を形成するたびに少しずつ移されていったように思われます。
たとえば佐竹氏の菩提寺となった「清涼寺」は1330年頃に尼寺ヶ原に建てられ、1480年頃に現在地に移されました。
また松平家の菩提寺「照光寺」も1374年に鹿の子に建てられ、1590年の大掾氏滅亡の時に寺は焼かれ、佐竹氏の支配となってから現在の場所に再建されたようです。

何故、この尼寺ヶ原と羽黒の名前にこだわるかと言うのは、出羽三山で知られる羽黒山には東北地方で最も古いと言われる五重の塔が存在し、この塔を建立したのが平将門だといわれているからなのです。
この五重の塔はその後に再建されたもので、将門が建てたと言われているものが同じようなものかどうかはわかりませんが、羽黒山の信仰と将門信仰がどのようにこの地に影響を及ぼしているのかが興味があるからです。
もっとも羽黒山を信仰としていたのはその後もたくさんあり、各地に羽黒山に行った記念に石碑を建てたり、祠を作ったりしていたことはよく見かけます。
今では神社の境内に置かれていたりするのでこのような事と同じかもしれません。
羽黒山では妙見菩薩信仰があり、石岡にはあまりにられない千葉氏や相馬氏などの人たちがひそかに信仰していたのかもしれません。
石岡の入口にあたる幸町(旧名:土器町)にも羽黒祠があったようですがこれはどこに行ったのでしょうか?
また気がついた時に書いていきたいと思います。


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