旧府中松平藩新屋敷
石岡の柏原公園の西側一帯に「旧府中松平藩」の屋敷と言われる場所がある。
「石岡市史」や「石岡の歴史」などの本に屋敷の区画と全名前が載っている。
訪れて見ても昔の屋敷の面影などは何処にも無く、後からできたと思われる家や畑などが広がるのみだ。

地図と屋敷の名前など(市制30周年記念 「石岡の歴史」より)
地図の左側の通りがいわゆる柿岡海道で、「鹿の子」信号(355号バイパスとの交差点)辺りが地図の左下にあたる。
南北に西側から順に「松の小路(こうじ)」「鶴の小路(こうじ)」「柏の小路(こうじ)」という3本の通りがあり、南から一番町から六番町まで碁盤の目のように整備された区画になっている。


柿岡街道沿いに「松の小路」の看板があり、ここから斜めに小路が続く。 入口に「ひかり食堂」がある。

真中が「鶴の小路」

一番東側が「柏の小路」
さて、これが江戸時代の藩があった時に藩の役人たちが住んでいたのだろうか?などと最初は考えていた。
しかし、そんな面影はどこにもない。
調べて見ると、ここができたのは明治維新になり藩の士族たちは職を失った。そして、明治9年に秩禄制度が廃止され、それまで禄で生活していた者たちはほとんど失業となってしまった。
石岡はわずか2万石で、陣屋があるのみで、2万石といっても離れた場所も含めてであり財政は厳しかった。
そのため、この柏原池近くの鹿の子の土地を藩主からもらいうけ、整備して住む場所を提供した。
そしてその場所で帰農する者なども出たのです。
もちろんそこに住居を構えて石岡の街に定職を持ったりしたようです。
それからもう140年。どのくらいの子孫が当時のままで残っているのかは分かりません。
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「石岡市史」や「石岡の歴史」などの本に屋敷の区画と全名前が載っている。
訪れて見ても昔の屋敷の面影などは何処にも無く、後からできたと思われる家や畑などが広がるのみだ。

地図と屋敷の名前など(市制30周年記念 「石岡の歴史」より)
地図の左側の通りがいわゆる柿岡海道で、「鹿の子」信号(355号バイパスとの交差点)辺りが地図の左下にあたる。
南北に西側から順に「松の小路(こうじ)」「鶴の小路(こうじ)」「柏の小路(こうじ)」という3本の通りがあり、南から一番町から六番町まで碁盤の目のように整備された区画になっている。


柿岡街道沿いに「松の小路」の看板があり、ここから斜めに小路が続く。 入口に「ひかり食堂」がある。

真中が「鶴の小路」

一番東側が「柏の小路」
さて、これが江戸時代の藩があった時に藩の役人たちが住んでいたのだろうか?などと最初は考えていた。
しかし、そんな面影はどこにもない。
調べて見ると、ここができたのは明治維新になり藩の士族たちは職を失った。そして、明治9年に秩禄制度が廃止され、それまで禄で生活していた者たちはほとんど失業となってしまった。
石岡はわずか2万石で、陣屋があるのみで、2万石といっても離れた場所も含めてであり財政は厳しかった。
そのため、この柏原池近くの鹿の子の土地を藩主からもらいうけ、整備して住む場所を提供した。
そしてその場所で帰農する者なども出たのです。
もちろんそこに住居を構えて石岡の街に定職を持ったりしたようです。
それからもう140年。どのくらいの子孫が当時のままで残っているのかは分かりません。


柿岡街道は車社会になるまでは舗装されておらず、龍神山の砕石を運ぶダンプが地響きをたてて往来したものです。まだ355号バイパスが無かったので若松町を通ってダンプが市内を通り抜けていたんですから大変なものでした。
柿岡街道の脇の土塁が地図に載っていますが、これも舗装されるまでは在り、上にヒバのような木が植えられていたのは道のホコリを防ぐためかと思いましたが、当初の区画から在ったんですね。人も車社会になるまでは子孫が結構いたと思います。谷向、村上には士と思うひとがいました。
> 南北に真っ直ぐな小路を知っています。あまり気にも留めませんでしたが、農道というにはちょっと雰囲気が違いました。
確かに気に留めるような場所では無いですね。
私も地図や看板で気になっていたのです。お屋敷もないですね。
> 柿岡街道は車社会になるまでは舗装されておらず、龍神山の砕石を運ぶダンプが地響きをたてて往来したものです。まだ355号バイパスが無かったので若松町を通ってダンプが市内を通り抜けていたんですから大変なものでした。
そうですか。竜神山もかなり中間が無くなりました。
> 谷向、村上には士と思うひとがいました。
八向あたりも昔の宇都宮街道?辺りは大きな家がありますね。
未だに土地を持つものと持たざる者に大きな差があります。
街中は店などが無くなっても駐車場だらけでそれでもやっていけるんでしょうね。
発展が望めないですね。
??