神宮寺城跡(稲敷)

 神宮寺から別当であるという高田神社に向かう道路(県道107号)沿いに「神宮寺城跡入口」という看板を見つけたので立寄りました。

神宮寺~江戸崎方面に向かう通りの右側に看板があり、少し入ったところに少しこんもりした森があり土塁らしきものが見えます。

入口は車など数台は置けますが、これから整備するような気配です。

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説明によるとかなり面白そうなことが書かれています。歴史の教科書にも出てきた「北畠親房(ちかふさ)」の城だそうだ。
何しろ訳のわからない南北朝時代だからまったく頭がついていかない。

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そしてネットで調べるとどれも同じような事が書かれています。もう少しわかるように書いてくれないかな・・・・。

でもここでも同じようになるしかないか。理解しながら書こうとはしてるのだが・・・

 1336年(延元元)に政権に不満を持つ武士団により鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏らが光明天皇を即位させ、後醍醐天皇が大和吉野に移って、天皇が2つに分裂した時(南北朝時代)、南朝の北畠親房(ちかふさ)らは陸奥国にわたり北から関東武士を仲間に加えて南朝方の形勢逆転勝利を図ろうとしたものと思われる。

しかし、海路で行く途中に伊豆沖で難破してこの近くの霞ヶ浦湖岸である東条ヶ浦にたどりついたようだ。

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この東条ヶ浦は良く分からないがこの現在の利根川と小野川とに挟まれた区域のどちら側か?または浮島近くか?
東条というのはこの辺りにいた豪族らしく、小野近くの下太田に城をかまえていたという。

そして、東条氏は、この神宮寺城も築城していたようで、この神宮寺城に北畠親房や数百人を招き入れた。

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しかし、 この場所は両側に川があるとしても完全な平山城で守るのにはあまり向かないところだ。
そして常陸の守護佐竹義篤・大掾高幹らに攻められて、わずか20日ほどで落城し、親房は近くの阿波崎城に逃れ、その後また敗走して小田城に籠城した。

その小田城に籠城している時に南朝の正統性を表した「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)を書いた。

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土塁の東北の角に「北畠准后唱義之所」の碑が建っている(大正4年造)。

ネットで調べていたら面白い記事があった。
(少し転載させて戴こう)

近隣には北畠親房卿にまつわる十三塚と呼ばれる供養塚があるが、この塚は南北朝時代延元三年(1338)親房卿等が伊勢の大湊から兵船五百余艘にて奥州に下向せるおり、伊豆沖で台風に遭い当地に漂着し神宮寺城に篭城した。その際親房卿は、近郊の名主から兵糧の助けを得たが、常陸の守護佐竹義篤軍に攻められ、小田城に移った。その際、神宮寺近郊の名主十四名は親房卿に加勢した罪により、佐竹義篤勢に斬首された。その時の名主の供養塚である。当寺では毎年十一月十八日に名主十四名の慰霊供養を行っている。
(全国善光寺会 会員紹介より)

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阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/22 19:52
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