宮部不動院
石岡の宮部地区にある不動院。
この寺院の裏手は大掾氏が築いた府中城の本丸に近い。
1590年に佐竹氏によって大掾氏が滅ぼされた時に、城もろとも焼けてしまった。
このためこの寺の創建も定かではない。しかし昔から府中の中心的な寺院の一つであった。

鈴ヶ池のあったくぼちは今は住宅が立ち並んでいるが、そこから不動院は一段登った高台にある。手前の道は昔の道で車がやっと1台通れるくらいでくねくねしているが、この山門の下に駐車場がある。

真言宗智山派 明王山虚空蔵寺不動院
本尊は行基の作といわれる不動明王。
後光明天皇の宸翰(書簡)が納められている。これは常陸府中の山口次郎衛門が寄進したもの(市のHP)


寺の本堂は近年になって建てなおされた。前に訪れた時は工事中でその前は古い本堂の時にきた。
この時の寄進者名と金額の札が置かれているが、多くの方が寄進されていることがわかる。
百万円以上が15人。最高額は1億円。 う~ん。なんともこんな額は見たことが無い。

虚空蔵。



寺の場所が高台なので恋瀬川方面に広がる田んぼが良く見える。
こちらの下は府中六井といわれた湧き水の鈴負井の場所です。
今でもこのあたりの田んぼには湧き水が多く出ているようで、六井の場所がどこかは特定されていません。
○ 宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水
という歌に残されています。
またこの裏山の先の窪地には「石井の泉」もあります。
○ 涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに
府中城のあった場所はきっと水には困らなかったのでしょう。

不動院は天正年間(1573-1592)に佐竹氏が府中城を攻めた際、戦火を受けて古記録を焼失した。開基などは不明であるが、寺伝によれば、明応2年(1493)醍醐三宝院(京都市伏見区)の弘範が中興したと言われる。明治堂跡については、現在残されている基壇の約四倍の規模をもつことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。
近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺域東側に指定されている。寺域は、東西約二七〇メートル、南北約二四〇メートルの規模を持っていた。
常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(複弁十葉蓮華文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の紋様であることが注目される。これは、国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の派遣などを含む、技術指導をしたことを物語っている。
(上の説明文の抜粋)
室町時代の作と伝えられる宝塔鈴(塔婆鈴)は県指定の文化財。
明応2年(1493)に醍醐三宝院(京都市伏見区)の弘範が中興したと伝えられ、この宝塔鈴(鈴の頭部が宝塔の形に鋳出してある)もこの三宝院から伝わったものと考えられます。
むかし府中城は今の石岡小学校のある辺りは三の丸で、本丸はこの不動院に近い山の中にあったと言われています。
この寺院の裏手は大掾氏が築いた府中城の本丸に近い。
1590年に佐竹氏によって大掾氏が滅ぼされた時に、城もろとも焼けてしまった。
このためこの寺の創建も定かではない。しかし昔から府中の中心的な寺院の一つであった。

鈴ヶ池のあったくぼちは今は住宅が立ち並んでいるが、そこから不動院は一段登った高台にある。手前の道は昔の道で車がやっと1台通れるくらいでくねくねしているが、この山門の下に駐車場がある。

真言宗智山派 明王山虚空蔵寺不動院
本尊は行基の作といわれる不動明王。
後光明天皇の宸翰(書簡)が納められている。これは常陸府中の山口次郎衛門が寄進したもの(市のHP)


寺の本堂は近年になって建てなおされた。前に訪れた時は工事中でその前は古い本堂の時にきた。
この時の寄進者名と金額の札が置かれているが、多くの方が寄進されていることがわかる。
百万円以上が15人。最高額は1億円。 う~ん。なんともこんな額は見たことが無い。

虚空蔵。



寺の場所が高台なので恋瀬川方面に広がる田んぼが良く見える。
こちらの下は府中六井といわれた湧き水の鈴負井の場所です。
今でもこのあたりの田んぼには湧き水が多く出ているようで、六井の場所がどこかは特定されていません。
○ 宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水
という歌に残されています。
またこの裏山の先の窪地には「石井の泉」もあります。
○ 涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに
府中城のあった場所はきっと水には困らなかったのでしょう。

不動院は天正年間(1573-1592)に佐竹氏が府中城を攻めた際、戦火を受けて古記録を焼失した。開基などは不明であるが、寺伝によれば、明応2年(1493)醍醐三宝院(京都市伏見区)の弘範が中興したと言われる。明治堂跡については、現在残されている基壇の約四倍の規模をもつことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。
近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺域東側に指定されている。寺域は、東西約二七〇メートル、南北約二四〇メートルの規模を持っていた。
常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(複弁十葉蓮華文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の紋様であることが注目される。これは、国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の派遣などを含む、技術指導をしたことを物語っている。
(上の説明文の抜粋)
室町時代の作と伝えられる宝塔鈴(塔婆鈴)は県指定の文化財。
明応2年(1493)に醍醐三宝院(京都市伏見区)の弘範が中興したと伝えられ、この宝塔鈴(鈴の頭部が宝塔の形に鋳出してある)もこの三宝院から伝わったものと考えられます。
むかし府中城は今の石岡小学校のある辺りは三の丸で、本丸はこの不動院に近い山の中にあったと言われています。
一方そうでない寺はの堂宇の外側に手を入れる程度であとは自分のために使っているのではないかと思わされます。小さい寺は仕方ありませんが、ある程度以上の寺についてです。
今後は高齢化と核家族家の影響で新しい墓を求める人が増えるでしょう。商才(?)ある寺は墓地を増やして檀家を増やすでしょう。市内でも容易です、駐車場になるか墓地になるかの違いで。
今後の石岡を見てゆきたいものです。
> 広い敷地を持つ大きな寺には2種類あると思います。庭を見ると決意のほどがわかります。立派な庭は極楽浄土への往生を願う信仰に基づくもので、それは本堂内の装飾も同じ。財力をその本来のつとめにつぎ込む寺は日々のおつとめもきちんとされている気がします。
そうですね。この寺はどちらなのでしょうね。庭が手入れされているという感じはありません。
そのような見方をすると確かにうなづけるものがありますね。
先祖代々つながっているとそこの檀家から抜けるのも大変かもしれませんね。
市内にたくさんの寺がありお盆や彼岸の時の様子は特別なものがありますね。
他所者には関係ないのですが・・・。
今は核家族ではありますが、次第に墓も求めず簡素化の傾向も強くなっています。
私なども死んだらどうなるかは少しくらい考えておかなければいけないのでしょうね。
コメントありがとうございます。石岡の寺の行方を見て行きます。