古東海道常陸ルートの一つの考え(2)

 今から1300年前頃の東海道(古東海道)は畿内から海沿いの国を通って終点は常陸国国府(現石岡)であった。

その頃はまだ湿地帯も多く霞ヶ浦も大きな内海で道もそれ程しっかりしたものではなかったと思われる。

その後、唐にならって各国府をできるだけ直線的に結ぶ広い街道が造られた?
でも恐らく山あり谷あり川ありの地形ではこれを完成どころか一部しかできなかったのではないかと思われる。

900年代初頭に作成された延喜式にはこれらの街道に置かれた駅家(うまや)の名前が載っている。
しかし、この頃の下総から常陸間にあったとされる駅家(茜津・於賦・榛谷・曾弥)のルートはどうみても霞ヶ浦を舟で渡るルートではなく土浦側を通っていたものと考えられる。

今の考えでは茜津:柏市藤心、於賦:利根町布川、榛谷:龍ヶ崎市半田、曾弥:土浦市下高津 当たりではないかと見られているが、これも色々な考え方がある。

押戸02

昔の地形に近い状況の地図で考えないとルートはわからない。
このため上の地図はFloodMapsをつかって海面高さを+7mとして表したものだ。

現在の霞ケ浦周辺を考えるよりももう少し海面を上昇させて考えないとどうも地形が見えてこない。

これはやはり利根川の東遷が大きいのだろう。何回も洪水がおき多量の土砂が上流からながれてきて昔内海であった場所を埋めて行ってしまったということがあったように思う。

さて、今から1100年ほど前には一部陸地も増えて、今の陸側を通れるようになっていたようだ。

それでも下総国府(市川)から柏、我孫子を通り、今の成田線の布佐あたりから布川に舟で渡り、そこから北上したルートであったと考えても良いだろう。(地図の③ルートに近い)
これは少し道は異なるが、後の佐竹街道、初期の水戸街道のルートに近いと考えられる。

また武蔵国(現在の東京)が東山道から東海道の国に組みかえられたのは宝亀2年(771年)の奏上によるので、この組み換え後には武蔵国と下総国府をつなぎルートや柏、松戸あたりから武蔵国に向かうルートなども整備され、どんどん内陸側にルートを変えて行ったものと思われる。

ここではそれより前の8世紀初頭の頃に聖武天皇が各地に律令制を敷き、国分寺を建設させ、都から国司を派遣していた初期の頃の古東海道のルートを考えている。

私の考えているルートは上の地図の黒い波線(①)を想定して考えて見た。

P8290013s.jpg

利根町の文間地区には水戸街道とは別にもっと古い道が残されている。
地元では鎌倉海道の一部と言われているが、恐らくこれがその頃の古東海道の一部と考えてよいのではないかと思う。

この道は現在近くまで大型団地が接近しているが、幸い新しい道路建設などが発展するには不便なところで、昔の面影が消えてしまうことが無かったのかもしれない。

この道は何時頃の事かはわからないが、「押戸」に船着き場があり、ここから舟に乗ったことが伝えられている。
(舟を押しだした場所)

右手の山側は文間地区の高台で、昔はこの下の道や田んぼの場所はすべて内海の下になっていたはずである。

P8290011s.jpg

押戸の麓のバス停である。
恐らく後の家の1階屋根高さくらいまで水が来ていたものと思われます。

P8290009s.jpg

押戸の麓のバス停のあたりから対岸の龍ヶ崎市の方を眺めて見た。

ここから何処へ舟で渡ったんだろう。
対岸の龍ヶ崎市側に向かったと考えるのがもっとも考えやすいのだが、そこから常陸国風土記の信太郡の所に書かれている常陸国の入口「榎浦の津」(駅家もあったそうだ)の湊に行かねばならないのだから、このまま舟で近くまで行ってしまう方が合理的だ。

もっとも「榎浦の津」の場所もはっきりしないので、こちらからではなく成田側から渡ったということも考えられるが、いままで現地に行って感じたことを大切にするので、私にはイメージし難いのである。

P8290014s.jpg

(続きます)

古東海道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/09/05 19:44
コメント
常陸への道
 古東海道の考察、たいへん興味深いです。常陸の国の中心だった石岡へ続く道を、全くの素人考えから見ると(1)常陸の名前から陸路だけで行ったのではないか。(2)内水面を何度も舟に乗り換えて行くのが常設道として成り立つ経済は無かったのでは。という疑問がわきます。
 古事記の有名な句『新治つくばを過ぎて…』を見るとつくば方面から石岡に達するのが常陸への道だったのかな、などと想像もしますが。時系列に確かなことを並べると見えるのかと思ったりします。わたしは素人です。
忠顕 さま
コメントありがとうございます。

これはいくつも考え方がありますので、私の私的な考えだとお笑いください。
今回もう少し考え方を追加しましたので参考にしてみていただけたら嬉しいです。

> 石岡へ続く道を、全くの素人考えから見ると(1)常陸の名前から陸路だけで行ったのではないか。
> (2)内水面を何度も舟に乗り換えて行くのが常設道として成り立つ経済は無かったのでは。

確かにそう思いますよね。でも武蔵国が東海道になっていない時には道も霞ヶ浦のうち海を渡ったように思うのです。常陸風土記に出てくる「水泳(くぐ)る茨城の国」です。

>  古事記の有名な句『新治つくばを過ぎて…』を見るとつくば方面から石岡に達するのが常陸への道だったのかな、などと想像もしますが。

これも当然知っていますが出雲族が北からやって来ています。そして筑波山の西側、北側に多くの足跡を残しています。筑波山を越えてくるのは大変のようです。

時系列的には神話として創られた部分があり、これが難しいですね。
まだまだこれからも、こんなことを考えてのあちこちの見学になりそうです。

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