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蛟蝄神社(奥の宮)

今日で東日本大震災後3年半が経ちます。

復興もまだまだです。 それなのに・・・・


 さて、昨日の続きです。

蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)の奥の宮は門の宮から東に700mくらい離れた場所にある。

蛟蝄は「みつち」とも読みます。水蛇(みずち)からこの名前になったともいわれています。

パンフレットなどの説明によると孝霊天皇3年(紀元前288)に水神である弥都波能売命(みつはのめのみこと)を
現在の門の宮の場所に祀ったのがその始まりで、文間大明神といわれてきたそうです。
そして、文武天皇2年(698)に土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を合祀し、東の高台に遷座したという。

ただし、この頃の話ははっきりしているわけではなく言い伝えやその後に作られたものかもしれません。

それ程離れた場所ではないのでもしかしたらつながっていたかもしれません。

門の宮に鳥居があり、山側で6~700mくらい参道があってもおかしくは無い位置関係なのですが、歩ける道もない。

こちら(奥の宮)には社務所があり、すぐ裏手に老人ホームがあるが木々で覆われてその存在は感じさせない。

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門の宮からは山を廻りこむような下の道路を進み、やはりここから階段で登る。
車は脇から上に登れば上に駐車場はある。

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奥の宮の本殿がポツンと置かれていた。
拝殿はその手前に新しく建て替えするために基礎だけが作られていた。

本殿は元禄16年(1703年)造営

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そして狛犬がこれも両脇にそのまま残されていた。

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向かって左の吽形。なかなか趣のある姿で、

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右側の阿形。口には両側に牙がある。

嘉永5年(1852)9月建立? 「信州 上田侍従 源忠優侯」と彫られている。

これは面白い。徳川は源姓を名乗っていたらしい。

上田城は真田の城で名高い。

ここに松平忠優(ただます)は19歳で信州上田城主となった。老中になったのは37歳だという。
鎖国を開いたのもこの忠優だともいう。

何故ここと上田城主又は江戸の老中との関係は?

下総布川藩との関係なども調べたら面白いことがわかるだろう。

これは時間が無いので、また後の譲ろう。


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利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/11 20:51
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