富田北向観音
今年のまつりの年番町は「富田町」です。
石岡(府中)の中には古くは4つの組がありました。
「香丸組」「中町組」「守木組」「馬之地組」です。
この馬之地が富田町です。
馬はこの府中に集まっており、色々に役立っていました。馬車組合もありました。
この馬之地の名前もここに馬を扱い人びとが住んでいたことに由来すると言われています。
この馬之地が富田に変わったのは江戸時代の宝永年間(1704~1710年)頃だといわれています。
富田町には昔から知られる「ささら」という三匹獅子の舞が残されており、祭りには何時も先陣を切って飛んで消えていきます。

もう一つが北向観音です。
石岡(府中)の中には古くは4つの組がありました。
「香丸組」「中町組」「守木組」「馬之地組」です。
この馬之地が富田町です。
馬はこの府中に集まっており、色々に役立っていました。馬車組合もありました。
この馬之地の名前もここに馬を扱い人びとが住んでいたことに由来すると言われています。
この馬之地が富田に変わったのは江戸時代の宝永年間(1704~1710年)頃だといわれています。
富田町には昔から知られる「ささら」という三匹獅子の舞が残されており、祭りには何時も先陣を切って飛んで消えていきます。

もう一つが北向観音です。
子育てに御利益があり北向観音として親しまれているこのお堂は、総社宮の神宮寺(神と仏を分離せよとの命で、神社境内に建てられたお寺)が建てられ、その観音堂として造られたものだそうです。
それが元禄年間(1688~1704)に富田町に移され、町の方(北向き)を向くように配置されたので北向観音と呼ばれるようになったものです。
もちろん信濃善光寺に対し、それと向き合う上田にある北向観音は善光寺と対で、片方をお参りしたのでは方参りになるともいわれますし現世の幸せを祈るとされますが、ここの北向観音と対になるのは仲之内町にある「隅之宮福徳稲荷神社」になると思います。
しかしこの考え方は今まで見た石岡の書物にには出てこないので、私の勝手な解釈ですが、丁度、」府中の街を両側から挟むように配置されています。
昨日のまつりの中日の午前中にこの前を通りました。

御仮殿。祭りが始まるとたくさんの人が行列でお参りにならびます。
今日はここから2時に神輿が街中を練り歩き総社に戻ります。

富田北向観音の隣の富田町のまつりの会所。

ここの十一面観音もこの日は御開帳となって拝むことができました。
比較的小さいのですね。


この正面が北向観音です。多くの山車はこの前でこちらの寿金丸通り?の方にきます。
子供もお父さんに肩車され、高い位置で景色が違って見え、うれしそうでした。
隣に立ったら私より背が高くなり「どうだ」と言わんばかりに笑っていましたよ。
それが元禄年間(1688~1704)に富田町に移され、町の方(北向き)を向くように配置されたので北向観音と呼ばれるようになったものです。
もちろん信濃善光寺に対し、それと向き合う上田にある北向観音は善光寺と対で、片方をお参りしたのでは方参りになるともいわれますし現世の幸せを祈るとされますが、ここの北向観音と対になるのは仲之内町にある「隅之宮福徳稲荷神社」になると思います。
しかしこの考え方は今まで見た石岡の書物にには出てこないので、私の勝手な解釈ですが、丁度、」府中の街を両側から挟むように配置されています。
昨日のまつりの中日の午前中にこの前を通りました。

御仮殿。祭りが始まるとたくさんの人が行列でお参りにならびます。
今日はここから2時に神輿が街中を練り歩き総社に戻ります。

富田北向観音の隣の富田町のまつりの会所。

ここの十一面観音もこの日は御開帳となって拝むことができました。
比較的小さいのですね。


この正面が北向観音です。多くの山車はこの前でこちらの寿金丸通り?の方にきます。
子供もお父さんに肩車され、高い位置で景色が違って見え、うれしそうでした。
隣に立ったら私より背が高くなり「どうだ」と言わんばかりに笑っていましたよ。
が、ご開帳されてた観音像を撮るのを忘れてしまいました(>_<)!
後で調べたのですが、観音さまのご開帳は決まった日にしか行われていないそうですね。もったいないことをしました
というわけで、後ほど記事にリンクさせてください
開帳されている時に行ったのが初めてだったので
観音様に失礼とは思いましたが写真撮ってしまいました。
リンクや写真の使用はご自由に・・・。