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貝地という地名

 今日で1月も終わりである。1日寒い日であったが、もうすぐ暖かくなるらしい。
夕方も日が暮れるのが大分遅くなって、六時頃はまだ少し明るかった。

 今日は「貝地」の地名について少し述べたいと思います。
石岡市貝地(かいじ)は茨城廃寺や府中外城(石岡城)などがあり、「茨城の県名発祥の地」などとも呼ばれている古い遺跡の残る地です。
今でも地面を掘ると遺跡などが出てくるといわれ、勝手にあまり深く掘ることができないそうです。
名前が「貝地」というので、貝塚などがあるように思ってしまいますが、まったく違っています。
「貝地」は昔は「廨地」と書かれているそうです。
「廨(かい)」という字は「公廨(くがい)(くげ)」などとして使われますが、役所、官庁などを指す言葉です。
辞書によると、「本来は官衙の舎屋の意味であったが、律令制下においては官衙の収蔵物・用度物のことを指すようになり、更に転じて官人(特に国司)の得分(給与)を指すようになった。」とあります。

そう、貝地は常陸国のお役所や資料などの倉庫、特に今の税務署の役人のような人がいた場所を示す地名なのです。
この地に「大掾(だいじょう)氏」と並ぶお役人の中心人物「税所(さいしょ)氏」がおりました。
税所氏の屋敷は「万福寺」の辺りだと考えられていますので、貝地のばらき台団地の入口です。

P1030029s.jpg

税所氏は名前の通り、税や文書管理をしていたことを表しておりますが、この名前は大掾氏と同じく、役職からつけられた名前で、元は「百済氏」といいました。

そうです、「百済(くだら)」は朝鮮半島南部に昔あり、日本に仏教などを伝えた国の名前です。
百済は西暦600年に唐により滅ぼされました。
その時、倭国(日本)には数千人の百済人が逃げてきたといわれています。
それも百済国の身分の高い人が皆逃げてきたようです。
西暦600年といえば日本では古墳時代です。

そして、各地の当時の役人たちの中にもこの人たちが多く含まれているようなのです。
この百済からの人も今の韓国人の中にも多くいるでしょう。
日本に来た人たちも、来た当時は九州や大和などにいたのでしょうが、大和朝廷の進出とともに各地に散らばっていったと思われます。
そうして、日本人になったのです。
日本(倭国)に来るのが早かったか遅かったかの違いでしょう。

どうして、日本の歴史教育は大和朝廷一本やりの内容になってしまっているのでしょうか。
この霞ケ浦周辺には昔からのどかに暮らしていた縄文人が数千年に亘って住んでいました。
そして、大和朝廷に従わない人々をオオカミ(性)やネズミ(窺う)、フクロウ(情)のような人間でない獣というような表現で退け占領したのです。

私もその(大和民族)の血を引き継いでいる一人だと思いますが、昔の歴史ももう少しわかりやすく教えてもらいたいものだと考えされられてしまいます。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/31 19:23
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