光明寺と鏑木城
今日、銚子に行く途中で香取神宮近くの山の上の方の神社に立寄ったのですが、もう9月末というのにツクツク法師が盛んに鳴いていました。
ここのところ、また昼間は少し暑さが戻ったせいかもしれない。
さすがに我が家のそばではもう鳴き声は聞きません。
もう少し前の事だが、千葉県匝瑳市の龍尾寺へのアクセス途中にある気になる場所を数か所まわりました。
先日須賀神社を紹介しましたが、そのすぐ近くが「古城」という地名になっていましたのでこの辺りを少しうろうろ。
そうすると、通り沿いに「鏑木城跡」という立札がありました。

鏑木(かぶらぎ)というと明治~昭和にかけての美人浮世絵師「鏑木清方」を思い浮かべるのですが、こちらは鎌倉に美術館もあり直接の関係はわかりません。
しかし、ここの地名も鏑木であり、千葉氏の重鎮である鏑木氏が住んでいた場所のようです。
この県道沿いの看板から山側に入った山の上のほうに城があったようです。
鏑木氏の始まりは千葉介常胤(つねたね、千葉氏3代当主)の長男千葉胤正(たねまさ)の八男白井胤時の子胤定が鏑木を領して鏑木氏のなったという。
この鏑木氏は原氏・円城寺氏・木内氏とならんで「千葉四天王」とよばれているという。
その後代々鏑木氏を継承したが、小田原の役で後北条氏方についたため、秀吉により天正18年にこの鏑木城も接収され、鏑木氏は野に下ったという。
まあ、石岡の大掾氏(だいじょうし)は最後まで戦い皆滅んでしまったので、今から思えば時代を見る目が狂っていたとしか言いようは無い。

城跡の看板のすぐ近くに「光明寺」という浄土宗の寺があった。
ここは、初代鏑木氏(胤定)が1253年に城の祈願所として建立したという。

寺には南北朝時代の板碑がある。
この辺りは古い板碑が多い。




この階段を登った上は歴代住職の墓である。
それにしてもたくさんある。何代に亘って続いているのだろうか。


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ここのところ、また昼間は少し暑さが戻ったせいかもしれない。
さすがに我が家のそばではもう鳴き声は聞きません。
もう少し前の事だが、千葉県匝瑳市の龍尾寺へのアクセス途中にある気になる場所を数か所まわりました。
先日須賀神社を紹介しましたが、そのすぐ近くが「古城」という地名になっていましたのでこの辺りを少しうろうろ。
そうすると、通り沿いに「鏑木城跡」という立札がありました。

鏑木(かぶらぎ)というと明治~昭和にかけての美人浮世絵師「鏑木清方」を思い浮かべるのですが、こちらは鎌倉に美術館もあり直接の関係はわかりません。
しかし、ここの地名も鏑木であり、千葉氏の重鎮である鏑木氏が住んでいた場所のようです。
この県道沿いの看板から山側に入った山の上のほうに城があったようです。
鏑木氏の始まりは千葉介常胤(つねたね、千葉氏3代当主)の長男千葉胤正(たねまさ)の八男白井胤時の子胤定が鏑木を領して鏑木氏のなったという。
この鏑木氏は原氏・円城寺氏・木内氏とならんで「千葉四天王」とよばれているという。
その後代々鏑木氏を継承したが、小田原の役で後北条氏方についたため、秀吉により天正18年にこの鏑木城も接収され、鏑木氏は野に下ったという。
まあ、石岡の大掾氏(だいじょうし)は最後まで戦い皆滅んでしまったので、今から思えば時代を見る目が狂っていたとしか言いようは無い。

城跡の看板のすぐ近くに「光明寺」という浄土宗の寺があった。
ここは、初代鏑木氏(胤定)が1253年に城の祈願所として建立したという。

寺には南北朝時代の板碑がある。
この辺りは古い板碑が多い。




この階段を登った上は歴代住職の墓である。
それにしてもたくさんある。何代に亘って続いているのだろうか。




時に佐倉市で鏑木せんあんという蘭学者がおられて、ここに墓標があったのを記憶しています。数年前まで佐倉市に住んでいたので感動しました。
では、失礼いたします。
千葉のこのあたりはあまり良く知らないのですが、うろうろしていて思わぬ発見などがあります。
鏑木姓の方のルーツなのでしょうか。
大変興味深く感じました。
これからも宜しくお願いします。