銚子陣屋跡
先日千葉県銚子の飯沼観音から街中の方へ少し歩いていたら「旧陣屋跡」という碑を見つけた。

調べたらここ銚子は江戸時代は上州高崎藩に組み入れられ、ここに陣屋が置かれていたそうだ。

ここは陣屋町で陣屋公園となっていた。
その一角にこの石碑と隣に熊野神社と青年館がある。

公園はそれ程大きくはないが、ここの陣屋跡を何とか残そうとしたようだ。

ここの銚子陣屋(飯沼陣屋)の由来はヤマサ醤油の重役「常世田忠蔵」の撰文が書きしるされている。
<飯沼陣屋由来記>
銚子の地は享保二年(1717)髙崎藩主松平右京太夫輝貞の支配に属しその髙十七ヶ村合せて五千十石
想うに寛永十二年(1635)利根水運江戸に通じてより日本海及東北各藩の物産多く銚子を中継地として江戸に運送するに至りその関門を扼する重要なる地点たるに及びて幕府は直系髙崎藩をしてその統治に當らせたるものならむ
爾来明治五年(1872)髙崎県支庁の廃さるゝまで十代百五十余年の間此所に陣屋を置き郡奉行一名代官二名その他により藩政を執行せしめたり
本碑の位置は當時の東辺中央に位し旧図に示す熊野大権現は隣地の社址なりという
この辺曽(かつ)て郭町(くるわちょう)と称し後に西町と改め現在陣屋町と称(い)う
飯沼陣屋廃されて八十餘年漸くその址虚しからんとするときこれを記念せんとする町民の熱意相凝って茲にその由来を記しこの碑を建つ
昭和三十四年四月十日 撰文 常世田忠蔵
飯沼陣屋址記念碑建立会長 名雪雲平
(皇太子と美智子さまのご成婚記念)


陣屋町という名は、昭和8年(1933)に、銚子市制が施行されたとき、市域の行政区画の改正が行われ、当時西町、郭町と呼ばれていた旧字から変わった新しい町名である。昭和20年(1945)に受けた戦災で、陣屋町地域はすっかり焼き尽くされてしまい、また戦後に行われた銚子市都市計画事業復興土地区画整備事業による幹線道路などの拡幅整備に伴い、かっての郭町(くるわちょう)のおもかげは、跡形もなく消え去ってしまった。「高崎藩銚子陣屋」が現在の陣屋町のどのあたりに所在していたか調査を行った。・・・・・・・・・・

調べたらここ銚子は江戸時代は上州高崎藩に組み入れられ、ここに陣屋が置かれていたそうだ。

ここは陣屋町で陣屋公園となっていた。
その一角にこの石碑と隣に熊野神社と青年館がある。

公園はそれ程大きくはないが、ここの陣屋跡を何とか残そうとしたようだ。

ここの銚子陣屋(飯沼陣屋)の由来はヤマサ醤油の重役「常世田忠蔵」の撰文が書きしるされている。
<飯沼陣屋由来記>
銚子の地は享保二年(1717)髙崎藩主松平右京太夫輝貞の支配に属しその髙十七ヶ村合せて五千十石
想うに寛永十二年(1635)利根水運江戸に通じてより日本海及東北各藩の物産多く銚子を中継地として江戸に運送するに至りその関門を扼する重要なる地点たるに及びて幕府は直系髙崎藩をしてその統治に當らせたるものならむ
爾来明治五年(1872)髙崎県支庁の廃さるゝまで十代百五十余年の間此所に陣屋を置き郡奉行一名代官二名その他により藩政を執行せしめたり
本碑の位置は當時の東辺中央に位し旧図に示す熊野大権現は隣地の社址なりという
この辺曽(かつ)て郭町(くるわちょう)と称し後に西町と改め現在陣屋町と称(い)う
飯沼陣屋廃されて八十餘年漸くその址虚しからんとするときこれを記念せんとする町民の熱意相凝って茲にその由来を記しこの碑を建つ
昭和三十四年四月十日 撰文 常世田忠蔵
飯沼陣屋址記念碑建立会長 名雪雲平
(皇太子と美智子さまのご成婚記念)


陣屋町という名は、昭和8年(1933)に、銚子市制が施行されたとき、市域の行政区画の改正が行われ、当時西町、郭町と呼ばれていた旧字から変わった新しい町名である。昭和20年(1945)に受けた戦災で、陣屋町地域はすっかり焼き尽くされてしまい、また戦後に行われた銚子市都市計画事業復興土地区画整備事業による幹線道路などの拡幅整備に伴い、かっての郭町(くるわちょう)のおもかげは、跡形もなく消え去ってしまった。「高崎藩銚子陣屋」が現在の陣屋町のどのあたりに所在していたか調査を行った。・・・・・・・・・・
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