木崎城跡と北浦武田郷

 玉造から県道354号線を霞ヶ浦大橋と反対方向の鹿行大橋方面に車を進めていると、鹿行大橋の少し手前に「武田の里」などと書かれた看板が目に付いた。

そう確か昔読んだことがあったが、この辺に甲斐武田氏の一族がやってきた場所があったのだ。

甲斐の武田信玄のルーツをたどると常陸国の武田郷(現ひたちなか市武田地区)になるのだが、その後甲斐に渡ってからその一族がこの地に居を構えた・・・。

木崎城跡04

甲斐武田氏の祖は八幡太郎(源義家)の弟で新羅三郎と呼ばれ、笙の名人ともいわれたた源義光だとされる。

今では後三年の役で奥州征伐に後から義家の応援に都での反対を押し切って出かけた新羅三郎義光が、戦いが住んで一旦都に戻った後に、常陸国の武田郷(ひたちなか市湫尾(ぬまお)神社あたり)に住んで、武田冠者と呼ばれたことに端を発すると言われるようになっています。

この義光の長男が戦国時代に常陸国を統一した佐竹氏となります。

義光は長男をすぐ上の兄に養子に出してしまったので、次男を連れて常陸国から追われて甲斐国に逃げたといわれますが、詳細はいくつか説があり詳しくはわかりません。

木崎城跡01

さて、この北浦近くの西側(行方市)に甲斐国の武田氏の一族が移り住んだといわれるのは上杉禅秀の乱(1416年)にさかのぼる。

甲斐武田氏の10代(甲斐源氏13代)当主(武田氏の初代は義光の孫である源清光の次男とした)である武田信満が親戚関係にもあった上杉禅秀に味方して敗れ、木賊山(後の天目山)で自害するという事件が発生した。
この地は後に信長に敗れた武田勝頼が自害(1582年)した天目山となるのである。

さて、この北浦の武田氏はこの武田信満の弟である武田信久が、兄が自害した時に千葉兼胤を頼って千葉に逃れてきたのが始まりだとされます。

そして翌年の 応永24年(1417)にこの北浦の地に逃れ、ここに城(神明城)を築いて住み着いたと言われています。

1438年に西砦、1455年に小貫城、1533年にこの写真の木崎城を築きます。

初期の神明城はこの木崎城よりも少し西側にあったようです。

そして1590年の佐竹氏の常陸国統一時に消滅してしまいます。

ただ、この地を選んだのも、元々のひたちなか市武田郷にいた武田氏の一部が大洋村側からこの辺り一帯に住んでいたのではないかともいわれるようです。

もう少し調べて見ないとよく分かりません。

木崎城跡02

北浦武田氏が最後にいた木崎城の跡地にはこの香取神社が建っています。
神社の周りには昔の土塁跡が残されています。

現地看板の説明によれば、木崎城を建てた時に、この香取神社を守護神として建立したとあります。
鹿島の力の強いこの地に何故香取神社なのか・・・。

昔から鹿島神宮の神域との争いが多かった武田氏ならではの事なのかもしれません。


木崎城跡03

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玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/12 19:00
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