正岡子規の句碑
本日、石岡市内にある金刀比羅神社で正岡子規の句碑の除幕式があった。
金刀比羅さんは霞ヶ浦の水運が盛んであった頃は笠間の稲荷と並ぶほどの参拝者があったという。
水戸街道もこの神社の前を通っていたし、陸前浜街道とも呼ばれていた。


正岡子規が学生であった頃に水戸の学友を訪ねて水戸街道を水戸まで徒歩で歩いた。
江戸を出て藤代に泊まるが雨も降って4月ではあったが寒さもありこの時の無理がたたって病に倒れたともいわれている。

旅の初日の宿は気持ちもよくなく、2日目には土浦を過ぎてようやく雨も上がり石岡まで足を延ばして「万屋」という宿屋に泊まった。
この宿のもてなしが気に行って「万屋は石岡一等の宿」だと「水戸紀行」に記している。

その時に石岡周辺では2つの句を詠んでいる。
「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」(今回の句碑)
「白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體」(こちらに記事)

土浦では霞ヶ浦が見たいと街道筋では見えなかったので高台にあった真鍋公園に登り、そこからの眺めに大いに喜んだ。
これは以前ブログに書いた。
「消えた真鍋公園と正岡子規」(こちら)

石岡に子規の句碑を建てるべきだと言って来て四年が経つ。
まあようやく完成したので遅かったが良しとしましょう。

写真の正面奥にうっすらと筑波山が見えます。天気が良ければくっきりと見えるでしょう。

← よろしければクリックお願いします。
金刀比羅さんは霞ヶ浦の水運が盛んであった頃は笠間の稲荷と並ぶほどの参拝者があったという。
水戸街道もこの神社の前を通っていたし、陸前浜街道とも呼ばれていた。


正岡子規が学生であった頃に水戸の学友を訪ねて水戸街道を水戸まで徒歩で歩いた。
江戸を出て藤代に泊まるが雨も降って4月ではあったが寒さもありこの時の無理がたたって病に倒れたともいわれている。

旅の初日の宿は気持ちもよくなく、2日目には土浦を過ぎてようやく雨も上がり石岡まで足を延ばして「万屋」という宿屋に泊まった。
この宿のもてなしが気に行って「万屋は石岡一等の宿」だと「水戸紀行」に記している。

その時に石岡周辺では2つの句を詠んでいる。
「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」(今回の句碑)
「白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體」(こちらに記事)

土浦では霞ヶ浦が見たいと街道筋では見えなかったので高台にあった真鍋公園に登り、そこからの眺めに大いに喜んだ。
これは以前ブログに書いた。
「消えた真鍋公園と正岡子規」(こちら)

石岡に子規の句碑を建てるべきだと言って来て四年が経つ。
まあようやく完成したので遅かったが良しとしましょう。

写真の正面奥にうっすらと筑波山が見えます。天気が良ければくっきりと見えるでしょう。



芭蕉のようには行かなかったようです。それでも、石岡の宿を気に入った様子だったこと、よかったですね。
> 子規は野球などもしていて、健康的なイメージがなくもありませんが、実際には、それほど身体頑健という程ではなかったようですね。
子規庵では長く病でふせっていたようですね。
血を吐いて死ぬまで歌は止めないとホトギス=子規だと聞きました。
何でも大成する人は心構えが違いますね。
>石岡の宿を気に入った様子だったこと、よかったですね。
もう少しこれもPRに使えば良いのにと思うのですが、何しろ腰が重い街です
石岡へお越しくださりありがとうございます。
ご指摘の句碑ですが、この句は正岡子規の「水戸紀行」の中に出てきます。
この本の中では
「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」となっており、「そふて」をそのまま採用したと思われます。
この碑も「石岡・・愛する会」という私的団体の作成したもので、行政などはかかわっていないと思います。
またこの会もあまり団体名の方達の名前もHPなどは作成していないと思いますので、一般の意見などは反映されにくい団体です。
私個人的にはこの会のメンバーは少し知っている方もいます。
ただお付き合いもありませんので問い合わせもしません。
まあ、公開されている書籍から引用したと思います。