千人塚-銚子の悲しい歴史を物語る
銚子の川口漁港(利根川沿い)から犬吠崎方面に進み丁度河口の先端部分の曲がり角の丘の上に石の塔が建てられていた。
そのまま通り過ぎてから引き返して立寄って見ることにした。
丘の周りには数知れない江戸時代から置かれていたような石碑や石像がたくさん。

(海難漁民慰霊塔 1960年建立)
石の階段があり丘の上に大きな石柱が建てられていた。
階段の入口に「千人塚」と書かれた古びた木の案内板があった。
江戸初期の慶長19年(1614)に、出漁中の漁師の舟が突風に襲われ、たくさんの漁師(1000人以上ともいわれる)が犠牲となった。
これは今回の東日本大震災と同様な大地震による津波の影響があったようです。
この利根川の河口付近は親潮、黒潮がぶつかり、そこに川からの流れが加わり複雑な潮の流れとなって、江戸時代前から恐れられた日本三大難所(阿波の鳴門、銚子の川口、伊良湖渡合(いらごどあい)(伊勢湾入口))のひとつだという。

そして、この河口を見下ろす位置に多くの供養塔が建てられた。
その後も犠牲はたびたびあり、宝永3年(1706)に観音像が建設された。

この地蔵堂の左側に古い顔も半分崩れたような観音像があった。

数知れないほどの名前が彫られた石板。

地蔵堂に祀られていた地蔵さん。

そして脇には数知れない供養石碑が。




上の石碑(銚子の画家・渡辺学が描いた漁民の図)の右奥に小さな白い灯台が見える。
これは海難防止に建てられた「一の島灯台」だそうだ。
一の島堤防は川口漁協の方からずっとこの河口入口まで伸びており、流れを制御している。
今ではここも釣り人の天国のような記述も多くあるが、昔は船が潮の流れに翻弄されたりして最も神経を使う場所であったようです。

上の写真は塚の供養塔から川口方面(銚子駅方面)を眺めたもの。
右の川が利根川であるが、一の島堤防で仕切られて左の狭い方に漁船は乗り入れる。
こちらは堤防のおかげで波は無く静かである。
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そのまま通り過ぎてから引き返して立寄って見ることにした。
丘の周りには数知れない江戸時代から置かれていたような石碑や石像がたくさん。

(海難漁民慰霊塔 1960年建立)
石の階段があり丘の上に大きな石柱が建てられていた。
階段の入口に「千人塚」と書かれた古びた木の案内板があった。
江戸初期の慶長19年(1614)に、出漁中の漁師の舟が突風に襲われ、たくさんの漁師(1000人以上ともいわれる)が犠牲となった。
これは今回の東日本大震災と同様な大地震による津波の影響があったようです。
この利根川の河口付近は親潮、黒潮がぶつかり、そこに川からの流れが加わり複雑な潮の流れとなって、江戸時代前から恐れられた日本三大難所(阿波の鳴門、銚子の川口、伊良湖渡合(いらごどあい)(伊勢湾入口))のひとつだという。

そして、この河口を見下ろす位置に多くの供養塔が建てられた。
その後も犠牲はたびたびあり、宝永3年(1706)に観音像が建設された。

この地蔵堂の左側に古い顔も半分崩れたような観音像があった。

数知れないほどの名前が彫られた石板。

地蔵堂に祀られていた地蔵さん。

そして脇には数知れない供養石碑が。




上の石碑(銚子の画家・渡辺学が描いた漁民の図)の右奥に小さな白い灯台が見える。
これは海難防止に建てられた「一の島灯台」だそうだ。
一の島堤防は川口漁協の方からずっとこの河口入口まで伸びており、流れを制御している。
今ではここも釣り人の天国のような記述も多くあるが、昔は船が潮の流れに翻弄されたりして最も神経を使う場所であったようです。

上の写真は塚の供養塔から川口方面(銚子駅方面)を眺めたもの。
右の川が利根川であるが、一の島堤防で仕切られて左の狭い方に漁船は乗り入れる。
こちらは堤防のおかげで波は無く静かである。


この石碑を見たときにはどちらかわからなかったのですが、たぶんそうだろうと思っていました。
でもたくさんの方がご苦労され、また寄付されて記念碑ができたことを改めて「すごいな」と思います。
銚子も月に3、4回行っていますので、何かあればまたご連絡ください。