日立の大煙突
常磐高速日立中央ICを下りて県道36号線を日立市街地と反対の山側にしばらく行くと「JX日鉱金属日立工場」がある。
工場の前に駐車場があり、ここに「日立製作所創業小屋跡」の石碑が置かれている。

1905年(日露戦争の翌年)に山口県出身の財閥久原房之助がこの山に眠る銅に目をつけて、それまで小さな鉱山であった「赤沢銅山」を買い取った。
ここに日本の産業を発展させるための基となる産業が生まれたのである。
1906年に東京電燈(現東京電力)に勤めていた技術者である小平浪平(おだいらなみへい)が国産初のモータ創りの夢を持ってやってくる。当時の肩書は工作課長である。
そしてここの鉱山(久原鉱業所日立鉱山)には掘削機以外にも数多くの機械が使われており、大きなものはほとんどが外国産でした。
当初この駐車場があった場所に鉱山の機械を修理するための木造小屋が建てられました。
そこで小平たちが初の国産モータの開発を行っていたのです。
5馬力の国産初のモーター(電動機)が完成したのは1910年のことです。
何故ここで?? という思いがしますが、当時日立鉱山は送風・用水・輸送・電灯・精錬など多くの機械が電化され、日本の工業を発展させるための機械がそろっていたのです。
そして1920年に日立製作所として独立します。
ですから日立は数年前に創業100年を迎えたという訳です。
そのため、ここは日立製作所の原点となった場所です。

ここ現在JX日鉱金属の工場の裏山に日立の町のシンボルともなっている大煙突が山の上に立っています。
これは、当時の鉱山からでる煙が近隣の農産物(特にタバコ)に甚大な被害が及びこれを賠償することで何とか補ってきたが、なかなか解決できずにいた。
まず考えたのが1911年に神峰山に巨大な煙道となるトンネル(神峰煙道:1630mの長さ)を掘り、そこに排煙用の送風機をつけて煙を神峰山の上まで送ろうと考えた。
しかし、現実は煙害となる亜硫酸ガスはあまり減らず失敗であった。
そして、1913年にはまず政府の指導で現在手前にある高さの低いダルマ煙突を立てた。しかしこの効果があれば3本の煙突を建てる予定であったが、効果は薄く、この1本のみで建設は中止され、久原は煙突を高くすればこの煙は上空の気流にのり、下には下りてこないと考え、周囲の反対を押し切って大煙突の建設に踏み切った。
上流の気流などを考えて計算された高さ155.7m(511フィート)に決定された。これは当時の世界最高の煙突がアメリカの505フィートであったのでこれを上回る世界最高の高さを目指したのである。
そして大煙突が完成したのは1915年(大正4年)でした。
これは見事に煙害は激減し、煙害の本格処理技術(亜硫酸ガスから硫酸を製造する技術)が完成する1951年(昭和26年)頃までその役目を果たしました。
役目を終わってからもこの大煙突は日立市のシンボルとして親しまれていましたが、1993年2月に突然崩壊してしまい現在残ったのは使える部分を修理して当時の1/3くらいの54mとなりました。

手前の煙突はダルマ煙突で役に立たなかったので馬鹿煙突と呼ばれているものです。
そしてその上にそびえる煙突が大煙突が崩壊して残った54mの煙突です。
この約3倍の高さであったというのですから想像するだけでも高いですね。
この煙突の建設当時の写真や図面などはこの県道を少し山の方に登った「日鉱記念館」に展示されています。
数々の機械などと共に当時の姿を偲ぶ貴重な写真や品々が無料で公開されています。
こちらにも行きましたので内部の写真などを明日載せます。

工場の前に駐車場があり、ここに「日立製作所創業小屋跡」の石碑が置かれている。

1905年(日露戦争の翌年)に山口県出身の財閥久原房之助がこの山に眠る銅に目をつけて、それまで小さな鉱山であった「赤沢銅山」を買い取った。
ここに日本の産業を発展させるための基となる産業が生まれたのである。
1906年に東京電燈(現東京電力)に勤めていた技術者である小平浪平(おだいらなみへい)が国産初のモータ創りの夢を持ってやってくる。当時の肩書は工作課長である。
そしてここの鉱山(久原鉱業所日立鉱山)には掘削機以外にも数多くの機械が使われており、大きなものはほとんどが外国産でした。
当初この駐車場があった場所に鉱山の機械を修理するための木造小屋が建てられました。
そこで小平たちが初の国産モータの開発を行っていたのです。
5馬力の国産初のモーター(電動機)が完成したのは1910年のことです。
何故ここで?? という思いがしますが、当時日立鉱山は送風・用水・輸送・電灯・精錬など多くの機械が電化され、日本の工業を発展させるための機械がそろっていたのです。
そして1920年に日立製作所として独立します。
ですから日立は数年前に創業100年を迎えたという訳です。
そのため、ここは日立製作所の原点となった場所です。

ここ現在JX日鉱金属の工場の裏山に日立の町のシンボルともなっている大煙突が山の上に立っています。
これは、当時の鉱山からでる煙が近隣の農産物(特にタバコ)に甚大な被害が及びこれを賠償することで何とか補ってきたが、なかなか解決できずにいた。
まず考えたのが1911年に神峰山に巨大な煙道となるトンネル(神峰煙道:1630mの長さ)を掘り、そこに排煙用の送風機をつけて煙を神峰山の上まで送ろうと考えた。
しかし、現実は煙害となる亜硫酸ガスはあまり減らず失敗であった。
そして、1913年にはまず政府の指導で現在手前にある高さの低いダルマ煙突を立てた。しかしこの効果があれば3本の煙突を建てる予定であったが、効果は薄く、この1本のみで建設は中止され、久原は煙突を高くすればこの煙は上空の気流にのり、下には下りてこないと考え、周囲の反対を押し切って大煙突の建設に踏み切った。
上流の気流などを考えて計算された高さ155.7m(511フィート)に決定された。これは当時の世界最高の煙突がアメリカの505フィートであったのでこれを上回る世界最高の高さを目指したのである。
そして大煙突が完成したのは1915年(大正4年)でした。
これは見事に煙害は激減し、煙害の本格処理技術(亜硫酸ガスから硫酸を製造する技術)が完成する1951年(昭和26年)頃までその役目を果たしました。
役目を終わってからもこの大煙突は日立市のシンボルとして親しまれていましたが、1993年2月に突然崩壊してしまい現在残ったのは使える部分を修理して当時の1/3くらいの54mとなりました。

手前の煙突はダルマ煙突で役に立たなかったので馬鹿煙突と呼ばれているものです。
そしてその上にそびえる煙突が大煙突が崩壊して残った54mの煙突です。
この約3倍の高さであったというのですから想像するだけでも高いですね。
この煙突の建設当時の写真や図面などはこの県道を少し山の方に登った「日鉱記念館」に展示されています。
数々の機械などと共に当時の姿を偲ぶ貴重な写真や品々が無料で公開されています。
こちらにも行きましたので内部の写真などを明日載せます。

車を置いた場所も同じです(笑)但し、石碑には気がつきませんでした不覚^^;
日立の大煙突なくして、現在の日立は語れないと思います。
すべてがここから始まったと言っても過言ではないでしょうね。
日鉱記念館の画像、楽しみにしていますね♪
> 車を置いた場所も同じです(笑)但し、石碑には気がつきませんでした不覚^^;
駐車場の真ん中あたりですが、煙突を見てると反対側ですので気がつかないでしょう。
ここにあった木造の小屋は写真しかないので残されていれば・・・。
火災にあったりしたようです。
> 日立の大煙突なくして、現在の日立は語れないと思います。
初めてまともに見ました。迫力がありますね。
続きをお楽しみに(笑)