本山寺-日立鉱山の負の足跡
日鉱記念館には久原房之助が興した巨大な偉業が展示されていました。
しかし、足尾にしても安中にしても大きな鉱害問題があったようにここでもやはり避けては通れなかった。
初期のうちは宮田川に鉱毒が流れ込み水田も作付できないようになった。
この土地を買い取ったり、水を他から引いてきたりして対策した。
そして鉱山が設立した農業試験場で鉱害にも負けない品種の開発などが行われた。
また漁業にも影響がありアワビ漁などで漁業関係者との補償交渉が行われている。
それと同時に鉱山病院、住宅、学校、鉄道、娯楽施設などの建設が行われ、大きな問題とならなかったようである。
もう一方亜硫酸ガスによる煙害も明治末頃よりたびたび発生してきたが、日立鉱山の拡大と共に煙害の範囲が拡大し頭を悩ませる日々が続いたのである。
これも地域の福利厚生に力を注ぎ丁寧に交渉して大きな住民闘争には発展しなかったようである。
そして最後はこの巨大煙突で煙害が減ると同時に山林を復元する植林などにも積極的に取り組んでいる。
しかし、これも表面的には大きな問題とならなかったようだが、現実を見ればきっと隠れた問題も存在しつづけたことと思う。
さて、日鉱記念館の素晴らしい建物を後にして近くにある「本山寺」に立寄った。
この記事を書いても良いかをだいぶ考えたが、これも一つの負の歴史であり、素通りすることもできそうにない。
詳細は書けないが、写真などを見て感じるものがあればと敢えて載せることにしました。

本山というのはこの辺りの鉱山がある地名となっています。
県道わきの山間に少し入って所にこの本山寺があります。

階段を上ったところに家が1軒あり、入口に「曹洞宗 本山寺」という看板がかかっています。
結婚式の案内や座禅会の案内などがかかっておりましたが本当に山間の小さなお寺です。

寺の前には「無縁塔」が置かれ、たくさんの塔婆が置かれていました。

そのまま奥に進むと広場があり少し不気味な感じで先にはすすめませんでした。
そして今登ってきたところを振り返って見て見ました。
こんな感じの寺に来たのは初めてです。
写真を見て何を感じるでしょうか。
太平洋戦争の前から鉱山には多くの朝鮮人が鉱員として働いていたようです。
そして、戦争がはじまると1942年6月までに3回にわたって延べ1900人ほどの朝鮮人がここに連行されて働いたとされ、その前の時からを含めると4200程の人が連れてこられたそうです。
戦争がはじまると中国からも数百人の人を数度にわたって連れてこられ、また捕虜となった外国人も働かされたと言います。
もちろんこれは政府が認めてきたことです。
働き手が不足して募集をしたのか強制的に連れて来たのかは私にはわかりません。
そして日本にやってきた人も時代が後になるほど身体の弱い人もいたようです。
そしてこの過酷な環境であり、戦争という時代の波を被ってしまっていますのでここで亡くなった朝鮮人や中国人もたくさんいたのです。小さな落盤事故も何度かあったと言われています。
それらの人を主にこの場所に葬ったとネットで調べて知りました。
その後遺骨の引き渡しなどもあったようですがこの寺を見ていると何か吹っ切れないものを感じます。
歴史問題はお互いの主張を言うだけでは平行線です。
未来志向に考え方のかじを切らなければお互いに不幸だと思います。
しかし、足尾にしても安中にしても大きな鉱害問題があったようにここでもやはり避けては通れなかった。
初期のうちは宮田川に鉱毒が流れ込み水田も作付できないようになった。
この土地を買い取ったり、水を他から引いてきたりして対策した。
そして鉱山が設立した農業試験場で鉱害にも負けない品種の開発などが行われた。
また漁業にも影響がありアワビ漁などで漁業関係者との補償交渉が行われている。
それと同時に鉱山病院、住宅、学校、鉄道、娯楽施設などの建設が行われ、大きな問題とならなかったようである。
もう一方亜硫酸ガスによる煙害も明治末頃よりたびたび発生してきたが、日立鉱山の拡大と共に煙害の範囲が拡大し頭を悩ませる日々が続いたのである。
これも地域の福利厚生に力を注ぎ丁寧に交渉して大きな住民闘争には発展しなかったようである。
そして最後はこの巨大煙突で煙害が減ると同時に山林を復元する植林などにも積極的に取り組んでいる。
しかし、これも表面的には大きな問題とならなかったようだが、現実を見ればきっと隠れた問題も存在しつづけたことと思う。
さて、日鉱記念館の素晴らしい建物を後にして近くにある「本山寺」に立寄った。
この記事を書いても良いかをだいぶ考えたが、これも一つの負の歴史であり、素通りすることもできそうにない。
詳細は書けないが、写真などを見て感じるものがあればと敢えて載せることにしました。

本山というのはこの辺りの鉱山がある地名となっています。
県道わきの山間に少し入って所にこの本山寺があります。

階段を上ったところに家が1軒あり、入口に「曹洞宗 本山寺」という看板がかかっています。
結婚式の案内や座禅会の案内などがかかっておりましたが本当に山間の小さなお寺です。

寺の前には「無縁塔」が置かれ、たくさんの塔婆が置かれていました。

そのまま奥に進むと広場があり少し不気味な感じで先にはすすめませんでした。
そして今登ってきたところを振り返って見て見ました。
こんな感じの寺に来たのは初めてです。
写真を見て何を感じるでしょうか。
太平洋戦争の前から鉱山には多くの朝鮮人が鉱員として働いていたようです。
そして、戦争がはじまると1942年6月までに3回にわたって延べ1900人ほどの朝鮮人がここに連行されて働いたとされ、その前の時からを含めると4200程の人が連れてこられたそうです。
戦争がはじまると中国からも数百人の人を数度にわたって連れてこられ、また捕虜となった外国人も働かされたと言います。
もちろんこれは政府が認めてきたことです。
働き手が不足して募集をしたのか強制的に連れて来たのかは私にはわかりません。
そして日本にやってきた人も時代が後になるほど身体の弱い人もいたようです。
そしてこの過酷な環境であり、戦争という時代の波を被ってしまっていますのでここで亡くなった朝鮮人や中国人もたくさんいたのです。小さな落盤事故も何度かあったと言われています。
それらの人を主にこの場所に葬ったとネットで調べて知りました。
その後遺骨の引き渡しなどもあったようですがこの寺を見ていると何か吹っ切れないものを感じます。
歴史問題はお互いの主張を言うだけでは平行線です。
未来志向に考え方のかじを切らなければお互いに不幸だと思います。
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