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木曳坂

 龍角寺と廻りの地形を知るためにウロウロして、手前の酒直地区の新興住宅内のはずれの道から成田線側に急な下り坂の脇を斜めに下りる道に「木曳坂」と書かれた看板が建てられていた。

木曳坂

これは龍角寺を上総介平常秀が再興した承久2年(1220年)の鎌倉時代のことであろう。

この下から寺の建築のための木材を曳いて通った道という伝承が残されているのだそうだ。

ということはこの坂の下に昔の内海であった香取海当時の津(湊)があったと言うことなのだろう。
地図で確かめることにした。

現在はこの坂を車で行くのは危なそうで、真直ぐに下へ降りる車道があるのでそちらを下って見た。

下りるとすぐに成田線の線路があり、踏切を渡ると線路沿いの県道に出た。この辺りは船戸というらしい。

佐原にも確か船戸という地名があった。
しかしこの佐原の船戸は利根川のすぐわきであり昔の津があったところというのは理解できるのだが、こちらはまだ川や印旛沼までは少し離れている気がする。



FloodMapsで海面水位を5~7m上昇させて昔の地形を想像した。

しかしこの辺りの海岸線は+7mも+5mもそれほど変わらない。

確かにこの線路際まで水が来ていても不思議ではないが、縄文海進時代ならともかく鎌倉時代でもこんなに水位が高かったとは考えにくい。

するとやはり江戸以降に利根川を銚子の方に東遷して、上流から大量の土砂が流れて陸地化したと考えるべきなのだろうか。

ただ香取の海の津があったというと現在の利根川側から舟で材木を運んだと思われそうだが、地図を見てどうやら佐倉市の方から印旛沼(現在より大分大きな)を通って運んできたと考える方が可能性は高いと感じた。

1220年頃にこの辺りがどのようになっていたかはやはり想像するしかないようです。

木曳坂3

印西・栄・成田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/06 19:55
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