卜杭
今日は暑いくらいでした。
朝から銚子の方に行って今帰ってきました。
まだ鼻風邪が続いていますが、このように気温が毎日変わると身体もついていきません。
今日少し前に書いていた記事をUPします。
安食(あじき)の龍角寺に行って成田線の駅名も気になりましたが、もう一つ気になる地名がありました。
「卜杭」です。これで「ぼっくい」と読みます。
「卜」はカタカナのトではありません。卜う(占う)という字です。塚原卜伝(鹿島の剣豪)のボクです。
ボックイというと前に「大棒杭(おおぼっくい)」という名前について書いたことがありました。(こちら)
その時も書いたのですが「焼けボックイに火がついた」という時に使われるボックイ=棒杭(木杭)です。
この印旛沼から安食周辺の地形の変化を考えるのにとても大切な地名だと思います。

「卜杭」という地名は地図では「安食卜杭」と「酒直卜杭」と出てきますが、どちらも現在は印西市で、安食や酒直は共に栄町になります。
この間を流れる長門川で市境(町境)となります。
今ではこの「卜杭」地には田んぼが広がるいわゆる干拓地だと思います。
昔、この地が沼地となっていた時に川の境に木杭を並べて打って土を運び入れて田を作ったのでしょう。

(FloodMaps : 水面高さを今の+5mとした)
北側は将監川で、東が長門川に挟まれています。
石岡などでも八木干拓などは政府の農地を増やせの号令のもとに霞ヶ浦にたくさんの木杭を打ち込んで農地を作りました。
しかし木杭がどこまでも沼地だと安定せずに流されてしまいました。
この辺りの地形は流れがほとんどなく木杭を打ち込めば干拓もうまくいったのではないかと思います。
少し歴史的にいつ頃なのかを見て見ました。
Wikipediaで安食卜杭(アジキボックイ)を引いてみます。
「江戸期は安食卜杭新田であり、下総印旛郡のうち。
寛文年間安食村卜杭野を開発して成立。
はじめ幕府領、元禄11年から佐倉藩領、享保8年から幕府領。
村高は「元禄郷帳」294石余、享保13年の見取場検地により252石余が改増、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに561石余。
小林新田・酒直卜杭新田、および笠神埜原(十四ヶ)新田を含めた地域は、枝利根川(将監川)と印旛沼に接しており、水害が多発したため早くから普請組合を結成している。」
と書かれています。
江戸時代の初期にすでに「安食村卜杭野」と呼ばれていたことがわかります。
江戸時代の初期からここで米作りが行われ、石高も増やされていますがたびたび水害が発生した事がわかります。
また「卜杭野」と呼ばれていたことから干拓のために棒杭を打ち込んだというよりも更に古くからこの卜杭という名前が使われていたようです。
「卜」(うらない)という字が使われていますのですこし違った意味合いがあった可能性もありますが、もともと「棒」という字も「木を奉じる」と書くように手で捧げられるほどの長さの木片を指す言葉ですから、これが「卜」と同じような意味合いを持っていたとも考えられます。
この「卜杭」という地名はここ以外にもう1カ所あるようです。
それは稲敷市の東端の横利根川沿いです。
ここも恐らく江戸初期またはもう少し前に田の耕地を確保するために川沿いに木杭を打ち込んだ場所だったのかもしれません。
朝から銚子の方に行って今帰ってきました。
まだ鼻風邪が続いていますが、このように気温が毎日変わると身体もついていきません。
今日少し前に書いていた記事をUPします。
安食(あじき)の龍角寺に行って成田線の駅名も気になりましたが、もう一つ気になる地名がありました。
「卜杭」です。これで「ぼっくい」と読みます。
「卜」はカタカナのトではありません。卜う(占う)という字です。塚原卜伝(鹿島の剣豪)のボクです。
ボックイというと前に「大棒杭(おおぼっくい)」という名前について書いたことがありました。(こちら)
その時も書いたのですが「焼けボックイに火がついた」という時に使われるボックイ=棒杭(木杭)です。
この印旛沼から安食周辺の地形の変化を考えるのにとても大切な地名だと思います。

「卜杭」という地名は地図では「安食卜杭」と「酒直卜杭」と出てきますが、どちらも現在は印西市で、安食や酒直は共に栄町になります。
この間を流れる長門川で市境(町境)となります。
今ではこの「卜杭」地には田んぼが広がるいわゆる干拓地だと思います。
昔、この地が沼地となっていた時に川の境に木杭を並べて打って土を運び入れて田を作ったのでしょう。

(FloodMaps : 水面高さを今の+5mとした)
北側は将監川で、東が長門川に挟まれています。
石岡などでも八木干拓などは政府の農地を増やせの号令のもとに霞ヶ浦にたくさんの木杭を打ち込んで農地を作りました。
しかし木杭がどこまでも沼地だと安定せずに流されてしまいました。
この辺りの地形は流れがほとんどなく木杭を打ち込めば干拓もうまくいったのではないかと思います。
少し歴史的にいつ頃なのかを見て見ました。
Wikipediaで安食卜杭(アジキボックイ)を引いてみます。
「江戸期は安食卜杭新田であり、下総印旛郡のうち。
寛文年間安食村卜杭野を開発して成立。
はじめ幕府領、元禄11年から佐倉藩領、享保8年から幕府領。
村高は「元禄郷帳」294石余、享保13年の見取場検地により252石余が改増、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに561石余。
小林新田・酒直卜杭新田、および笠神埜原(十四ヶ)新田を含めた地域は、枝利根川(将監川)と印旛沼に接しており、水害が多発したため早くから普請組合を結成している。」
と書かれています。
江戸時代の初期にすでに「安食村卜杭野」と呼ばれていたことがわかります。
江戸時代の初期からここで米作りが行われ、石高も増やされていますがたびたび水害が発生した事がわかります。
また「卜杭野」と呼ばれていたことから干拓のために棒杭を打ち込んだというよりも更に古くからこの卜杭という名前が使われていたようです。
「卜」(うらない)という字が使われていますのですこし違った意味合いがあった可能性もありますが、もともと「棒」という字も「木を奉じる」と書くように手で捧げられるほどの長さの木片を指す言葉ですから、これが「卜」と同じような意味合いを持っていたとも考えられます。
この「卜杭」という地名はここ以外にもう1カ所あるようです。
それは稲敷市の東端の横利根川沿いです。
ここも恐らく江戸初期またはもう少し前に田の耕地を確保するために川沿いに木杭を打ち込んだ場所だったのかもしれません。
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