渋谷嘉助旧宅正門(多古町)
千葉県多古町に渋谷嘉助旧宅正門.があるとブログリンク先の「成田に吹く風」さんの紹介記事で見て立寄ることにした。
国登録有形文化財で千葉県教育委員会のHPでは
「明治43年(1910)頃の建築で、煉瓦造平屋建。和瓦葺の屋根を載せており、正面左右を倉とする長屋門風の形態をとっている。赤煉瓦の壁面は、1段ごとに交互に小口面と長手面とが現れるイギリス積みで構成。外壁はバットレス(壁の倒壊を防ぐために設ける壁から張り出した控壁)により正面を3間に区切っており、中央には半楕円形アーチの出入り口が設けられている。また、側面の上部にある2連の丸窓も特徴的であり、建築当時の進取の気風を感じ取ることができる。 」
と書かれている。

この渋谷嘉助(しぶやかすけ)という人物のことは何も知らなかったので調べて見ると大変面白い。
多くの紹介きじでは、「日本で最初にダイナマイトを輸入した人物」という説明であった。
でもこれだけでは時代背景も人物像も見えてこない。もう少し詳しく見て見たい。

この田舎と言っては失礼だが決して開けた場所ではないが、ここ下総中村(現千葉県多古町中村)に渋谷嘉助は幕末の嘉永2年(1849)に里の長の家に生まれた。
しかし家運は次第に衰退。
叔父(父の弟)の渋谷忠兵衞が江戸京橋で銃砲火薬商を営んでおり、そこに11歳で入り商売をおぼえた。
その後幕末維新を経験し、実父が亡くなって、叔父忠兵衞の養子になりこの江戸の鉄砲火薬店を継ぐことになった。
この鉄砲火薬商が日清戦争(明治27~28年)(1894~1895)で渋谷嘉助は実業家としての表舞台に出てきたようである。
渋谷商店は日本橋で火薬類を販売する陸軍御用達の店になっており、日清戦争で日本に割譲された台湾にいち早く社員を派遣して支店を設けた。色々何事も最初に開拓するのは大変だったようだが、やはり腹の据わった人物であったに違いない。
また鉱山用にダイナマイトを最初に日本に輸入したのもこの渋谷商店であったという。
火薬の運搬は当時大分神経を使う仕事だったであろう。
日露戦争などでも火薬やダイナマイトの入手に奔走した。

東京や台湾の商店とは別に、岩手県の大船渡や赤崎でこの人物のことが良く取り上げられている。
それは渋谷商店を義弟に譲り、嘉助は明治43年(1910)に大船渡の対岸にある赤崎にある弁天山で石灰石の採掘(渋谷鉱業)を始めたのである。
それが国内の鉄鋼産業などに供給され、さらにセメント事業も着手し、いまはここに太平洋セメント大船渡工場がある。

現地で名前を残したのは、大船渡村と赤崎村との間には江戸時代から続く漁場をめぐる紛争が絶えなかったという。
この中間に位置していた珊琥島を嘉助が所有しており、それを大正3年にそっくり大船渡村と赤崎村に寄付し、両者の和睦を訴えたのである。

そして島に私財を投じて公園を整備し2つの村の共有財産として譲り渡したのです。
大正15年に両村は渋谷嘉助に感謝して、この公園に顕彰碑が建立されました。
今ではこの両村は同じ大船渡市として一体となっていますので、このことがなければ別々のままであったかもしれません。

この頃の巨額な富を築いた財界人が今の日本の大企業や、財閥となっています。
皆調べて見ると先見の明もあり自分の事を顧みずに社会貢献を行っています。
見方を変えればそれだけ財を持てばこそできたともいえるのですが、皆苦労をしたり日本のためと懸命に振舞っていたことが見て取れます。
(多古町中村)
(大船渡市珊琥島)

国登録有形文化財で千葉県教育委員会のHPでは
「明治43年(1910)頃の建築で、煉瓦造平屋建。和瓦葺の屋根を載せており、正面左右を倉とする長屋門風の形態をとっている。赤煉瓦の壁面は、1段ごとに交互に小口面と長手面とが現れるイギリス積みで構成。外壁はバットレス(壁の倒壊を防ぐために設ける壁から張り出した控壁)により正面を3間に区切っており、中央には半楕円形アーチの出入り口が設けられている。また、側面の上部にある2連の丸窓も特徴的であり、建築当時の進取の気風を感じ取ることができる。 」
と書かれている。

この渋谷嘉助(しぶやかすけ)という人物のことは何も知らなかったので調べて見ると大変面白い。
多くの紹介きじでは、「日本で最初にダイナマイトを輸入した人物」という説明であった。
でもこれだけでは時代背景も人物像も見えてこない。もう少し詳しく見て見たい。

この田舎と言っては失礼だが決して開けた場所ではないが、ここ下総中村(現千葉県多古町中村)に渋谷嘉助は幕末の嘉永2年(1849)に里の長の家に生まれた。
しかし家運は次第に衰退。
叔父(父の弟)の渋谷忠兵衞が江戸京橋で銃砲火薬商を営んでおり、そこに11歳で入り商売をおぼえた。
その後幕末維新を経験し、実父が亡くなって、叔父忠兵衞の養子になりこの江戸の鉄砲火薬店を継ぐことになった。
この鉄砲火薬商が日清戦争(明治27~28年)(1894~1895)で渋谷嘉助は実業家としての表舞台に出てきたようである。
渋谷商店は日本橋で火薬類を販売する陸軍御用達の店になっており、日清戦争で日本に割譲された台湾にいち早く社員を派遣して支店を設けた。色々何事も最初に開拓するのは大変だったようだが、やはり腹の据わった人物であったに違いない。
また鉱山用にダイナマイトを最初に日本に輸入したのもこの渋谷商店であったという。
火薬の運搬は当時大分神経を使う仕事だったであろう。
日露戦争などでも火薬やダイナマイトの入手に奔走した。

東京や台湾の商店とは別に、岩手県の大船渡や赤崎でこの人物のことが良く取り上げられている。
それは渋谷商店を義弟に譲り、嘉助は明治43年(1910)に大船渡の対岸にある赤崎にある弁天山で石灰石の採掘(渋谷鉱業)を始めたのである。
それが国内の鉄鋼産業などに供給され、さらにセメント事業も着手し、いまはここに太平洋セメント大船渡工場がある。

現地で名前を残したのは、大船渡村と赤崎村との間には江戸時代から続く漁場をめぐる紛争が絶えなかったという。
この中間に位置していた珊琥島を嘉助が所有しており、それを大正3年にそっくり大船渡村と赤崎村に寄付し、両者の和睦を訴えたのである。

そして島に私財を投じて公園を整備し2つの村の共有財産として譲り渡したのです。
大正15年に両村は渋谷嘉助に感謝して、この公園に顕彰碑が建立されました。
今ではこの両村は同じ大船渡市として一体となっていますので、このことがなければ別々のままであったかもしれません。

この頃の巨額な富を築いた財界人が今の日本の大企業や、財閥となっています。
皆調べて見ると先見の明もあり自分の事を顧みずに社会貢献を行っています。
見方を変えればそれだけ財を持てばこそできたともいえるのですが、皆苦労をしたり日本のためと懸命に振舞っていたことが見て取れます。
(多古町中村)
(大船渡市珊琥島)

これから渋谷嘉助についてもっと調べてみたいと思います。
そちらで紹介された記事で興味を持ったもの。
調べたら結構面白かったです。
これからもよろしく。