大鷲神社(安食)2
千葉県印旛郡栄町安食(あじき)の大鷲(おおわし)神社の続きです。
この神社の創建は明らかではなく、神社入口の看板では939年に主建物が建てられたとある。
当然今残っている建物がこれほど昔のものではないが、本殿の金具の銘から天保2年(1831年)の造営と考えられています。

神社入口の大鳥居。鳥居の裏側には「天保十一庚子年三月吉日」となっています。1840年のようです。

神社へは正面の石段と右から回って上る石段があります。
真直ぐ登るのは急階段で男坂。右側の緩い階段は女坂と呼ばれています。
男坂・女坂の呼び名はもう少し意味があることが上って見てわかりました。
女坂を上った先に「夫婦杉」「合体椎の木」「子授け大樹」などがありここが縁結び、子授け信仰が強いことがわかりました。

その中で特徴的なのがこの「魂生大明神」です。
ここに祀られている物は・・・・・。

説明は省きます。いやいや大きいな・・・
おみやげにもこの形の物があるようです。
また12月の酉の市では木製のこれを御神体として担ぐようです。説明は下記に載せます。
神社に飾られている中央のシンボルは石製で大きさは日本一(高さ2.5m,周囲2.3m)だそうです。

英文の説明書も付いているので興味のある方は読んでみて下さい。

そこから本殿の方に上る階段があります。

その途中にある門の扁額に「鷲賀岡神社」と掲げられていました。
この神社はもともとこの鷲賀岡神社とか鷲宮と呼ばれていたようです。
これが明治26年に現在の大鷲神社に変わりました。

力石だと思いますが非常に丸い球体状の石です。大昔から使われているようで信仰的な意味合いも強そうです。

大鷲神社拝殿。

注連縄

鷲の彫刻。

本殿の龍の彫刻。
この神社の説明によれば「江戸時代、春日局の崇敬非常に厚く、竹千代が三代将軍となったとき、そのことを祝い、将軍の船の舳先に魔除として飾ってあった金の大鷲を将軍より願い受けて奉納したといわれ、現在、宝物として保存され、出世開運の神として知られています。 」と書かれています。
この神社の創建は明らかではなく、神社入口の看板では939年に主建物が建てられたとある。
当然今残っている建物がこれほど昔のものではないが、本殿の金具の銘から天保2年(1831年)の造営と考えられています。

神社入口の大鳥居。鳥居の裏側には「天保十一庚子年三月吉日」となっています。1840年のようです。

神社へは正面の石段と右から回って上る石段があります。
真直ぐ登るのは急階段で男坂。右側の緩い階段は女坂と呼ばれています。
男坂・女坂の呼び名はもう少し意味があることが上って見てわかりました。
女坂を上った先に「夫婦杉」「合体椎の木」「子授け大樹」などがありここが縁結び、子授け信仰が強いことがわかりました。

その中で特徴的なのがこの「魂生大明神」です。
ここに祀られている物は・・・・・。

説明は省きます。いやいや大きいな・・・
おみやげにもこの形の物があるようです。
また12月の酉の市では木製のこれを御神体として担ぐようです。説明は下記に載せます。
神社に飾られている中央のシンボルは石製で大きさは日本一(高さ2.5m,周囲2.3m)だそうです。

英文の説明書も付いているので興味のある方は読んでみて下さい。

そこから本殿の方に上る階段があります。

その途中にある門の扁額に「鷲賀岡神社」と掲げられていました。
この神社はもともとこの鷲賀岡神社とか鷲宮と呼ばれていたようです。
これが明治26年に現在の大鷲神社に変わりました。

力石だと思いますが非常に丸い球体状の石です。大昔から使われているようで信仰的な意味合いも強そうです。

大鷲神社拝殿。

注連縄

鷲の彫刻。

本殿の龍の彫刻。
この神社の説明によれば「江戸時代、春日局の崇敬非常に厚く、竹千代が三代将軍となったとき、そのことを祝い、将軍の船の舳先に魔除として飾ってあった金の大鷲を将軍より願い受けて奉納したといわれ、現在、宝物として保存され、出世開運の神として知られています。 」と書かれています。
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