国の特別史跡(常陸国分尼寺跡)
ブログネタも尽きてくると近場に出かけるが、ここは常陸国分尼寺跡。
紹介は何度かしているので今回はあまりしない。

国分尼寺は「法華滅罪之寺」が正式名称。一方国分寺(僧寺)は「金光明四天王護国之寺」といった。
聖武天皇より全国に国分寺と国分尼寺を建設せよと天平13年(741年)3月に造営の詔が出されたが、すぐに建設できるものでもなく、また国分寺には七重塔を建立することの命令もあった。
それからたびたび建設の催促なども出されており、聖武天皇が亡くなってからもまだ建設が進んでいなかったところが多く残っており詔が出されてから全国に整備されるまでには20年以上かかったようです。
ここ常陸国はそれでも早い方だったといわれています。

僧寺には封戸50戸、水田10町と僧侶は20人。
尼寺には水田10町と尼僧が10人。
国の特別史跡は茨城県では3か所のみ。
水戸の旧弘道館と石岡の常陸国分寺跡及び常陸国分尼寺の3か所です。
この国分寺と国分尼寺跡が共にはっきりした形で見つかったことが指定された根拠で、指定は大正10年と古いものです。
今では他の場所でもいくつか見つかってきましたが、当時はここだけだったのです。
今ではこの国分尼寺跡は史跡公園として広場があるのみです。
広場中央に桜の2本の木が南北に並んでいます。
史跡の跡は南から南大門、中門、金堂、講堂と並び、更にその北側に建物跡が見つかっておりそこが炊事場だったといわれています。
天慶2年(939年)11月に平将門はこの常陸国府を1000の兵で攻めかかりました。
国府側の兵は3000人でしたが、たちまちのうちに家は焼かれ乱暴の限りを尽くされて蹂躙されてしまいました。
この時に尼僧たちも逃げ惑ったと思われ、この尼寺の伽藍は灰となって消えてしまいました。
そのご再建されたのかどうかがはっきりしません。ここで経ち消えてしまったと考えるべきかもしれません。
一部では天正19年の大掾氏の滅亡の時に灰となったとの話もありますので再建されたのかもしれませんが、国の権威のシンボルとして建った国分寺、国分尼寺は将門の乱の頃には全国でもすでに荒廃してしまったところがたくさんあるようですので民衆の信仰対象とはあまりならなかったのかもしれません。
紹介は何度かしているので今回はあまりしない。

国分尼寺は「法華滅罪之寺」が正式名称。一方国分寺(僧寺)は「金光明四天王護国之寺」といった。
聖武天皇より全国に国分寺と国分尼寺を建設せよと天平13年(741年)3月に造営の詔が出されたが、すぐに建設できるものでもなく、また国分寺には七重塔を建立することの命令もあった。
それからたびたび建設の催促なども出されており、聖武天皇が亡くなってからもまだ建設が進んでいなかったところが多く残っており詔が出されてから全国に整備されるまでには20年以上かかったようです。
ここ常陸国はそれでも早い方だったといわれています。

僧寺には封戸50戸、水田10町と僧侶は20人。
尼寺には水田10町と尼僧が10人。
国の特別史跡は茨城県では3か所のみ。
水戸の旧弘道館と石岡の常陸国分寺跡及び常陸国分尼寺の3か所です。
この国分寺と国分尼寺跡が共にはっきりした形で見つかったことが指定された根拠で、指定は大正10年と古いものです。
今では他の場所でもいくつか見つかってきましたが、当時はここだけだったのです。
今ではこの国分尼寺跡は史跡公園として広場があるのみです。
広場中央に桜の2本の木が南北に並んでいます。
史跡の跡は南から南大門、中門、金堂、講堂と並び、更にその北側に建物跡が見つかっておりそこが炊事場だったといわれています。
天慶2年(939年)11月に平将門はこの常陸国府を1000の兵で攻めかかりました。
国府側の兵は3000人でしたが、たちまちのうちに家は焼かれ乱暴の限りを尽くされて蹂躙されてしまいました。
この時に尼僧たちも逃げ惑ったと思われ、この尼寺の伽藍は灰となって消えてしまいました。
そのご再建されたのかどうかがはっきりしません。ここで経ち消えてしまったと考えるべきかもしれません。
一部では天正19年の大掾氏の滅亡の時に灰となったとの話もありますので再建されたのかもしれませんが、国の権威のシンボルとして建った国分寺、国分尼寺は将門の乱の頃には全国でもすでに荒廃してしまったところがたくさんあるようですので民衆の信仰対象とはあまりならなかったのかもしれません。
こういう歴史を知ると、時代劇を見て昔は一律男尊女卑だと思い違いをすることが改まり「女性の人権」などという言葉が新しい概念であると思い込むこともなくなるのではないでしょうか。
紹介は価値あることだと思い声なき応援を送りたいです。
この場所は訪れた人にどのような思いを抱いていただけるのかと良く考えます。
> 国分尼寺跡として場所が保存されているのは意義深いと思います。
確かにそうですよね。
何度か訪れているうちに私もなんとなく思う物が違ってきています。
何もないところですが色々に考えさせられます。
> こういう歴史を知ると、時代劇を見て昔は一律男尊女卑だと思い違いをすることが改まり「女性の人権」などという言葉が新しい概念であると思い込むこともなくなるのではないでしょうか。
新たな視点が広がりました。御指摘感謝いたします。
国分尼寺の北方にある、鹿の子C遺跡から出土した官衙ブロックや漆紙文書の発掘情報も夢中で集めました。現在では、相当に調査、解析が進んだことと思います。伺いたくて足裏がもぞもぞします。
いろいろご紹介くださり、楽しみにしております。
こちらの歴史にも興味を持っていただき感謝です。
この常陸国分尼寺跡もただ広場があるのみです。
何もないのですが色々なことを知ると何もないのも良いかなとも思います。
見る人の頭の中で色々な景色が広がります。
ただの観光目的で来てもつまらないところですね。
> 武蔵国分尼寺と思い併せて感慨が深いです。
私も武蔵国分寺は昔住んでいた近くで良く知っています。
(萩山と武蔵小金井に住んでいました)
私がいた時には武蔵国分尼寺跡はまだ発掘されていなかったと思います。
> 国分尼寺の北方にある、鹿の子C遺跡から出土した官衙ブロックや漆紙文書の発掘情報も夢中で集めました。現在では、相当に調査、解析が進んだことと思います。伺いたくて足裏がもぞもぞします。
良くお調べですね。機会がありましたら是非お越しください。ご案内します。
鹿の子C遺跡の場所は高速道路になっていて看板だけです。
発掘されたものは常陸風土記の丘の展示室にて公開されています。
昔の常陸国の人口がかなり多かったようです。
そんなことやここから蝦夷征伐に武器を供給していたことなどを考え合わせて見ると急に昔が身近に思えます。
コメントありがとうございました。