陣屋門移転(2)
新旧の陣屋門の屋根に着目して見ましょう。
下の写真の上が旧陣屋門でその下が今回の新築された陣屋門です。
何故こんなに変えてしまったのでしょうか?

(2011.9撮影 旧陣屋門)

(新陣屋門の屋根)
まず一番違いがわかるのが鬼がわらの家紋です。
今回の展示されたパンフレットによる説明を読むと、
-----------------------------------------------------
陣屋門の瓦は、これまでにも何度か葺きかえられてきました。今回の改修でも、瓦は痛みが激しかったため、すべてを交換することになりました。
一口に「瓦」といっても、いろいろな種類があります。まず、屋根の大棟両側にある鯱(しゃちほこ)は現存する最古のもの(製作年代は不明)をモデルに製作しました。担当したのは、滋賀県大津市の美濃邉鬼瓦工房代表の美濃邉恵一さん。美濃邉さんはNHKの番組「プロフェッショナル」でも紹介された一流の鬼師(鬼瓦職人)です。
もちろん、鯱の下にある鬼瓦も、美濃邉鬼瓦工房に製作をお願いしました。
なお、今回の改修では、鬼瓦にあしらう府中松平家の家紋を「替紋」から「定紋」に改めています。
江戸時代、それぞれの家は公式に用いる「定紋」(「表紋」「本紋」「正紋などとも言う)のほか、「替紋」(「裏紋」「別紋」「副紋」「控紋」などとも言う)も用いました。
府中松平家は、定紋に「隅切角内葵巴紋」、替紋に「花葵紋」を用いており、これまでの鬼瓦には「替紋」があしらわれておりました。
「替紋」がいつから鬼瓦に用いられていたか定かではありませんが(明治以降、破損のたびに改修が繰り返されたと思われますが、記録が残っていません)、門の顔ともいえる鬼瓦には定紋が用いられるのが一般的ですし、替紋の下から商家の紋らしきものが現れるなど、明治期以降に転用された鬼瓦と考えられたことから、今回は紋を「隅切角内葵巴紋」に改めることにしました。
屋根全体に用いられる桟瓦、軒先の軒瓦は、石岡市内で瓦制作を行なっている桜井瓦工業が担当。桜井瓦工業の櫻井茂幸氏は、第25回技能コンクール(かわらぶき部門)で内閣総理大臣賞を受けるなど、第一線で活躍している瓦葺師です。
-----------------------------------------------------
どうも読んでいてスッキリしません。
紋を変更した正当性をぐだぐだと並べているが、どうも言い訳しているだけのように読める。
後から変更したことを後悔しなければ良いのだが・・・・。

上の写真が今回取り外された昔の家紋です。
小石川の藩邸に対し、常陸府中の陣屋は「替紋」(裏紋)を用いたのではないかと思います。
近くにある照光寺にある松平家の墓所の家紋は定紋が使われていますが、これは小石川の松平家の墓を明治になって移したものだと聞いています。

(照光寺の松平家墓所の家紋)


鯱鉾も大分スマートでした。今回少しふっくらしたようです。
大分面白い鯱鉾だと前には思っていたので、今回の変更で何処か普通の鯱鉾になってしまったと思うのは私くらいなのでしょうか。

新しくしなければならないこともわかります。
今回の変更分は良く記録に残しておいてほしいと思います。
陣屋門の歴史と今回の工事のあらましが写真などのパネルとして展示されていました。

下の写真の上が旧陣屋門でその下が今回の新築された陣屋門です。
何故こんなに変えてしまったのでしょうか?

(2011.9撮影 旧陣屋門)

(新陣屋門の屋根)
まず一番違いがわかるのが鬼がわらの家紋です。
今回の展示されたパンフレットによる説明を読むと、
-----------------------------------------------------
陣屋門の瓦は、これまでにも何度か葺きかえられてきました。今回の改修でも、瓦は痛みが激しかったため、すべてを交換することになりました。
一口に「瓦」といっても、いろいろな種類があります。まず、屋根の大棟両側にある鯱(しゃちほこ)は現存する最古のもの(製作年代は不明)をモデルに製作しました。担当したのは、滋賀県大津市の美濃邉鬼瓦工房代表の美濃邉恵一さん。美濃邉さんはNHKの番組「プロフェッショナル」でも紹介された一流の鬼師(鬼瓦職人)です。
もちろん、鯱の下にある鬼瓦も、美濃邉鬼瓦工房に製作をお願いしました。
なお、今回の改修では、鬼瓦にあしらう府中松平家の家紋を「替紋」から「定紋」に改めています。
江戸時代、それぞれの家は公式に用いる「定紋」(「表紋」「本紋」「正紋などとも言う)のほか、「替紋」(「裏紋」「別紋」「副紋」「控紋」などとも言う)も用いました。
府中松平家は、定紋に「隅切角内葵巴紋」、替紋に「花葵紋」を用いており、これまでの鬼瓦には「替紋」があしらわれておりました。
「替紋」がいつから鬼瓦に用いられていたか定かではありませんが(明治以降、破損のたびに改修が繰り返されたと思われますが、記録が残っていません)、門の顔ともいえる鬼瓦には定紋が用いられるのが一般的ですし、替紋の下から商家の紋らしきものが現れるなど、明治期以降に転用された鬼瓦と考えられたことから、今回は紋を「隅切角内葵巴紋」に改めることにしました。
屋根全体に用いられる桟瓦、軒先の軒瓦は、石岡市内で瓦制作を行なっている桜井瓦工業が担当。桜井瓦工業の櫻井茂幸氏は、第25回技能コンクール(かわらぶき部門)で内閣総理大臣賞を受けるなど、第一線で活躍している瓦葺師です。
-----------------------------------------------------
どうも読んでいてスッキリしません。
紋を変更した正当性をぐだぐだと並べているが、どうも言い訳しているだけのように読める。
後から変更したことを後悔しなければ良いのだが・・・・。

上の写真が今回取り外された昔の家紋です。
小石川の藩邸に対し、常陸府中の陣屋は「替紋」(裏紋)を用いたのではないかと思います。
近くにある照光寺にある松平家の墓所の家紋は定紋が使われていますが、これは小石川の松平家の墓を明治になって移したものだと聞いています。

(照光寺の松平家墓所の家紋)


鯱鉾も大分スマートでした。今回少しふっくらしたようです。
大分面白い鯱鉾だと前には思っていたので、今回の変更で何処か普通の鯱鉾になってしまったと思うのは私くらいなのでしょうか。

新しくしなければならないこともわかります。
今回の変更分は良く記録に残しておいてほしいと思います。
陣屋門の歴史と今回の工事のあらましが写真などのパネルとして展示されていました。

確かにこれはオカシイですね。当初の瓦の拓本でも残っていて、それになるべく合わせて再現したのであれば納得出来ますが、これですと復元の域を逸脱してしまっている様に見えます。後世の改変があることは建築物の場合は止むを得ない側面もありますから、後世に伝えるべきものをきちんと見極めて復元作業を行うべきかと思います。
まあ新しく立派になって喜ぶ人もいるようです。
陣屋の門ですからそれ程の価値があるかどうかもしれたものですが・・・
それにしても個人的には昔の姿を残してほしかったとの思いが強いですね。
史跡なども発掘して記録して埋めてしまったりしますから、仕方がないところも・・・
あまり文句を言ってももう元には戻りません。
記録だけはしっかりと残してほしいと思います。
そうですか「復興」ですか。これも流行りなのでしょうか??
姫路城も綺麗になったのですよね。
昔のままではないのかもしれませんね。
やはり復元ではなく復興なのですね。こういう考えもあるのかもしれません。
今から更に150年くらい先までを見ているのかもしれません。
でも個人的には復元してほしかったと思います。