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正月平

今日はギター文化館のコンサートに行ってきた。友人とフィリピン人を一人連れて行った。
また会社の同僚の若夫婦が子供を連れてきてくれた。十分楽しめたようだ。
ギターのオカヤンもかなりよかった。うまく溶け込んでおり全体に厚みができていた。
帰り際に、鈴木牧場でヨーグルトとチーズを買って、友人たちを送って、今帰ってきたところである。

あまり新しい話も書くのは大変なので、今日はめでたい地名としてよく名前のあげられる「正月平(しょうがつだいら)」についてです。
もう知っておられる方にはつまらない話ですが、この名前の由来は八幡太郎(源)義家と父親の頼義親子が奥州安倍氏と争った前九年の役(1051年~)の時のことです。
陸奥守に任じられた源頼義とその子義家親子が奥州へ行く途中でこの場所で正月を迎えます。
村の人々は数少ない住民しかおりませんでしたが、温かく迎え接待をしたと伝えられています。
まだこの最初の奥州戦は人数も少なく、この親子にとっては大変苦労した戦いになりました。黄海の戦いで数百人の死者を出し戦に敗れ、安倍氏側の勝利となるかと思われたが、清原氏の助けを借りて安倍氏を滅ぼします。
この時朝廷側の兵はおよそ1万。頼義の兵は約3千と伝えられます。

その後東北地方は安倍氏に代わって清原氏が治めることになりますが、後三年の役では今度はこの清原氏との戦いになりこれを滅ぼします。その後奥州に勢力を伸ばしたのは藤原氏となるのです。
この戦に向かう八幡太郎義家には続々と味方が加わり、かすみがうら市の四万騎(しまき)ヶ原、石岡の五万掘、生板池(七万)などの地名が残されるようになります。
この正月平にも八幡太郎義家の「鞍掛けの松」があったといわれますが、今はどうなっているか??

さて、源頼義の三男新羅三郎義光が後三年の役(1083年~)で、兄を助けるために参戦を朝廷に願い出ますが許されず、官を辞して参戦します。
そして、戦いの後、源義光は常陸守に任じられて常陸国にやってきます。そして常陸平氏(吉田)から妻をめとり勢力を拡大していきました。
この源義光の子孫が常陸国を統一した佐竹氏であり、甲斐の武田氏となっていきます。
源氏も平家もないですね。甲斐国に行ったのは、義光が甲斐守に任じられたこともありますが、常陸平氏の勢力(鹿島氏など)との軋轢があるといわれています。

しかし、私にはこの新羅三郎義光が笙(しょう)(ふえ)の名人で、戦争に行って帰れないかもしれないため、追いかけてきた豊原時秋に足柄山においてこの秘曲を授けた逸話の方がとても興味を引きます。

今日の話題から段々それてしまっていますので、話題を戻して、この正月平地区を散策してみました。
場所は三村の少し南側の高台地区です。

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現在の正月平地区の通りです。大きな塀の家が多いですね。

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地区のはずれにある八幡神社です。

この近くのかすみがうら市の「子安神社」「胎安神社」などにこの八幡太郎の伝承が残されています。
石岡は古東海道の終点の都市でした。その東海道を通ってきたとすると昔の街道がこの辺りにあったことになります。
美浦村の牛込から霞ケ浦(香取の海)を舟で牛渡へ渡り、そのから旧出島村を通ってこの三村地区(正月平)へでて、中津川あたりで恋瀬川を渡って北根本へでて国府へ向かったのでしょう。
この川のあたりの地名に「かいつづみ」という場所があるといいます。
これは、湿地帯で歩行困難となった時に付近に群生する茅を刈り取って集めそれを踏みしめて何とか無事に進むことができたため「茅堤」と言う名が付いたものだそうです。これが訛ってかいつづみ(地元では「かえつづみ」と発音)となったものといいます。

平将門の国府攻めもほぼ似たようなルートではなかったかと思います。まっとも正上内などが将門に味方して四方から火を放ちながら攻め入ったようです。
西暦900年頃から鎌倉時代頃まではこちらの道がかなり使われていたのでしょう。
今からは想像するのみですが・・・。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/06 19:04
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