天狗の話 - 常陸坊海尊
今日は大分暖かかったですね。今晩雨の予報だが、今は少し曇った空には真ん丸の月がボーと街を照らしている。
今年早々に天狗の話題を数回にわたってこのブログに書いてきました。
そして、その最後に稲敷市阿波にある「大杉神社」を取り上げたのですが、そこにある天狗のモデルはこの寺に昔いた「常陸坊海尊(存)」だというので、この人物を調べて見たら結構面白いことがわかってきました。

阿波(あば)神社の派手さに比べるとその隣接する安穏寺(天台宗)は華やかさはなくひっそりとしています。私が訪れた日も大杉神社は大勢の人が訪れていましたが、寺の方はひっそりでした。

上の写真の右側の色彩豊かな彫刻が施されたところが大杉神社です。正面の奥に見える杉が大杉神社の御神木の大杉です。

安穏寺の入口階段左側に「安穏寺」の石柱があり、右側には「常陸坊海存」の石柱が建てられています。
この安穏寺は大杉神社の守護するために延暦24年(805年)開基され、明治になるまで大杉神社は安穏寺が管理していたといいます。
さて、入口の常陸坊海存というのは、武蔵坊弁慶と同様に源義経の郎党と言われる謎に満ちた人物で、数々の伝説が伝わっている人物です。
義経が奥羽平泉で追手と僅かな兵で戦っていた時、仲間の十一人の者が戦に加わらず近くの山寺に行っていたと伝わっており、この中の一人がこの常陸坊海存であり、名前が記録されているただ一人の人物である。他の者は名前も伝わっていないが、海存一人がどういう訳か後世に名前が伝わり400年も生きていたとかの伝説まで生まれてしまったのである。
義経の逃避行で案内役をしているようなのだが詳細が全く不明で、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまうという。
そういうところがこのような伝説を生むのかもしれない。
特に会津の実相寺の禅僧に残夢(ざんむ)という人物がいて、源平合戦の話をまるでそこにいた人のように鮮明に話したため、この人物が海存ではないかと言われるようになったというのだ。これに伴って江戸時代の1500年半ばまで生きていたかのようなうわさが広がったともいわれています。
なにしろ天狗ならこれくらい長生きしてもおかしくないと当時思われていたのかもしれません。
さて、この大杉神社、安穏寺に伝わる話はこうだ。(大杉神社HPより)
「文治年間にはその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は烏天狗を御眷属としておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。現在ではいかなる願いも叶えて下さったと伝えられる海存の奇跡に由来して、大杉神社を日本で唯一の「夢むすび大明神」と称し、鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と呼ばれるようになりました。」

形相を真似て作ったら天狗の形相になったというもので、大杉神社の入り口にも二つの天狗の像がありました。向かって左側が鼻高天狗、右側には烏天狗です。
さて、この海存を調べると何かもっと面白いこともわかってくるのですが、時間もないのでまたの機会に譲ることにしましょう。
さらに、この大杉神社のHPには
「時代は下って、江戸時代初頭には当時江戸崎不動院(稲敷市江戸崎)にあった天海に雨をもたらす奇跡を与えた神社として知られ、以降天海は安穏寺の住職となり大杉大明神に仕えました。このため安穏寺および大杉神社は天海が住職を務める、上野寛永寺や日光輪王寺の直兼帯となり、明治になるまで輪王寺宮の兼帯するところとなりました。」
と書かれています。
徳川家康が江戸の町造りや、家康の墓所を日光に選定するのに絶大な力を発揮したといわれる「天海」という僧侶が出てくるのです。
この地も江戸時代になり利根川の流れを家康の命令で銚子の方に変えたためにいろいろと影響があったものと考えます。
私は歴史の教科書やこのような資料に書かれていることを全部信用することもありませんが、このような事実または風聞などが生まれるには、そこに隠れた当時の人々の考え方や生活があるのでとても興味がありますね。
さて「海存」伝説を石岡と真壁の市境の山「足尾山」にも見ることができるので、それはまた明日にでも調べて書きたいと思います。
今年早々に天狗の話題を数回にわたってこのブログに書いてきました。
そして、その最後に稲敷市阿波にある「大杉神社」を取り上げたのですが、そこにある天狗のモデルはこの寺に昔いた「常陸坊海尊(存)」だというので、この人物を調べて見たら結構面白いことがわかってきました。

阿波(あば)神社の派手さに比べるとその隣接する安穏寺(天台宗)は華やかさはなくひっそりとしています。私が訪れた日も大杉神社は大勢の人が訪れていましたが、寺の方はひっそりでした。

上の写真の右側の色彩豊かな彫刻が施されたところが大杉神社です。正面の奥に見える杉が大杉神社の御神木の大杉です。

安穏寺の入口階段左側に「安穏寺」の石柱があり、右側には「常陸坊海存」の石柱が建てられています。
この安穏寺は大杉神社の守護するために延暦24年(805年)開基され、明治になるまで大杉神社は安穏寺が管理していたといいます。
さて、入口の常陸坊海存というのは、武蔵坊弁慶と同様に源義経の郎党と言われる謎に満ちた人物で、数々の伝説が伝わっている人物です。
義経が奥羽平泉で追手と僅かな兵で戦っていた時、仲間の十一人の者が戦に加わらず近くの山寺に行っていたと伝わっており、この中の一人がこの常陸坊海存であり、名前が記録されているただ一人の人物である。他の者は名前も伝わっていないが、海存一人がどういう訳か後世に名前が伝わり400年も生きていたとかの伝説まで生まれてしまったのである。
義経の逃避行で案内役をしているようなのだが詳細が全く不明で、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまうという。
そういうところがこのような伝説を生むのかもしれない。
特に会津の実相寺の禅僧に残夢(ざんむ)という人物がいて、源平合戦の話をまるでそこにいた人のように鮮明に話したため、この人物が海存ではないかと言われるようになったというのだ。これに伴って江戸時代の1500年半ばまで生きていたかのようなうわさが広がったともいわれています。
なにしろ天狗ならこれくらい長生きしてもおかしくないと当時思われていたのかもしれません。
さて、この大杉神社、安穏寺に伝わる話はこうだ。(大杉神社HPより)
「文治年間にはその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は烏天狗を御眷属としておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。現在ではいかなる願いも叶えて下さったと伝えられる海存の奇跡に由来して、大杉神社を日本で唯一の「夢むすび大明神」と称し、鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と呼ばれるようになりました。」

形相を真似て作ったら天狗の形相になったというもので、大杉神社の入り口にも二つの天狗の像がありました。向かって左側が鼻高天狗、右側には烏天狗です。
さて、この海存を調べると何かもっと面白いこともわかってくるのですが、時間もないのでまたの機会に譲ることにしましょう。
さらに、この大杉神社のHPには
「時代は下って、江戸時代初頭には当時江戸崎不動院(稲敷市江戸崎)にあった天海に雨をもたらす奇跡を与えた神社として知られ、以降天海は安穏寺の住職となり大杉大明神に仕えました。このため安穏寺および大杉神社は天海が住職を務める、上野寛永寺や日光輪王寺の直兼帯となり、明治になるまで輪王寺宮の兼帯するところとなりました。」
と書かれています。
徳川家康が江戸の町造りや、家康の墓所を日光に選定するのに絶大な力を発揮したといわれる「天海」という僧侶が出てくるのです。
この地も江戸時代になり利根川の流れを家康の命令で銚子の方に変えたためにいろいろと影響があったものと考えます。
私は歴史の教科書やこのような資料に書かれていることを全部信用することもありませんが、このような事実または風聞などが生まれるには、そこに隠れた当時の人々の考え方や生活があるのでとても興味がありますね。
さて「海存」伝説を石岡と真壁の市境の山「足尾山」にも見ることができるので、それはまた明日にでも調べて書きたいと思います。
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