100年の歴史を持つ小学校の分校が2つ廃校
数年前から銚子へ月に数回出かけている。
霞ケ浦の北側や土浦側の南側を通って国道51号線で茨城県から千葉県に入る。
そして利根川を渡った国道356号(利根水郷ライン)を川に沿って走るか、混雑を避けるために利根川の北側の中州の道路を走ることも多い。
この中州は利根川と常陸利根川とに挟まれた地帯で、開墾によって整備されたと思われる田が広がる田園地帯である。


この通り沿いに小学校の分校の案内看板が2か所でており、前から
「いまどき、山の中でもないのにまだ分校なんてあるのか?」
と気になっていました。
しかし何度か通っているうちにこの看板が変化していることに気が付きました。
看板の「○○分校」の後ろに「跡」という文字が追加されていたのです。
まあもともと看板が古くて、分校などもうないものだと思っていたので少し意外な気がしました。
銚子に行く時間にもまだ余裕があったので見学して見ることにしました。

まず「香取市立新島小学校大東分校」(跡)です。
明治30年に寺子屋式で開校。
明治34年に校舎建設し、新島小学校大東分教場となる。
平成25年3月31日で閉校。(116年の歴史に幕)
最後の卒業生は3人で残りの10人が新島小学校に編入。

廃校後1年半以上過ぎ今では校舎(昭和62年新築)もほぼ取り壊され広い敷地が残っています。

もう一つも比較的近くです。
「香取市立小見川北小学校利北分校」(跡)
明治38年利根川で分断された地域の通学の便を計るため分室として開設
明治40年分教場
昭和8年 豊浦尋常高等小学校利北分教場
昭和48年校舎改築
平成7年 校舎新築
平成26年3月31日 閉校 (107年の歴史に幕)
こちらは大東分校廃校より1年遅れの昨春に廃校となりました。

こちらは5・6年生は本校に通うため、1~4年生のみが分校に通っていました。
閉校時の生徒数は13人(1~4年生)です。
こちらは廃校まだ間もないので、校舎もそのまま残っていました。
これは今後どうするのでしょうか?

こんなに近くに2つの小学校分校があったのには訳があります。
大東分校の住所は香取市附洲新田(つきすしんでん)1356-1で市町村合併前の佐原市です。
一方利北分校は香取市一之分目(いちのわけめ)番外7-3でもとの小見川町です。
大東分校は新島小学校がもっと西にありこのあたりは水郷地帯で舟を使ったりした移動が必要で一番離れた東端に分校を建てたものと思われます。
一方利北分校の本校は利根川の南側にあり、通うには利根川を舟で渡らねばなりません。
この中州の開拓地帯の歴史は古く、江戸時代に国の政策として開墾がすすめられたようです。
そのため、開墾農民が暮らすこのエリアにかなりの人が暮らしており、便宜を図るために分教場が設けられたと考えられます。
でもそんなところは日本中たくさんあり、分校もほとんどは統合されたり、独立した小学校となったりしています。
地元の分校はそこに暮らす人の子供たちや親にとってかなり利便性が良かったのでしょう。
それもとうとう少子化と全国の学校の統廃合がすすめられていく渦の中に巻き込まれてしまったのだと思います。
利根川の南側に国道356号線(利根水郷ライン)を佐原から小見川方面(銚子方面)に走っていくとバス停などの標識に「一之分目」(いちのわけめ)と「三之分目」(さんおわけめ)という」地名が出てきて「あれ?」という気がします。
いまどきの地名としては少し古いイメージですよね。
どういう訳か「二之分目」という」地名はないようです。
江戸時代に区画整理をした時につけられた区分名が村名(一之分目村など)となり、そのままいまは香取市の住所となって残されています。
この地域が利根川北側の中州側の低地と、南側の地域に分断されましたが、行政としては一体に運営されてきたことが推察されます。
江戸時代に入り徳川家康の命令で利根川は江戸湾から銚子に流れが変えられたのです。
こんな分校の廃校ということから、私は昔はどんな暮らしがここにはあったのかを少し考えさせられました。
もう少し調べて記事を書きたいと思っていましたがなかなか手が進みません。
記事が古くなってしまいますのでまずは感じたことなどを綴ってみました。
霞ケ浦の北側や土浦側の南側を通って国道51号線で茨城県から千葉県に入る。
そして利根川を渡った国道356号(利根水郷ライン)を川に沿って走るか、混雑を避けるために利根川の北側の中州の道路を走ることも多い。
この中州は利根川と常陸利根川とに挟まれた地帯で、開墾によって整備されたと思われる田が広がる田園地帯である。



この通り沿いに小学校の分校の案内看板が2か所でており、前から
「いまどき、山の中でもないのにまだ分校なんてあるのか?」
と気になっていました。
しかし何度か通っているうちにこの看板が変化していることに気が付きました。
看板の「○○分校」の後ろに「跡」という文字が追加されていたのです。
まあもともと看板が古くて、分校などもうないものだと思っていたので少し意外な気がしました。
銚子に行く時間にもまだ余裕があったので見学して見ることにしました。

まず「香取市立新島小学校大東分校」(跡)です。
明治30年に寺子屋式で開校。
明治34年に校舎建設し、新島小学校大東分教場となる。
平成25年3月31日で閉校。(116年の歴史に幕)
最後の卒業生は3人で残りの10人が新島小学校に編入。

廃校後1年半以上過ぎ今では校舎(昭和62年新築)もほぼ取り壊され広い敷地が残っています。

もう一つも比較的近くです。
「香取市立小見川北小学校利北分校」(跡)
明治38年利根川で分断された地域の通学の便を計るため分室として開設
明治40年分教場
昭和8年 豊浦尋常高等小学校利北分教場
昭和48年校舎改築
平成7年 校舎新築
平成26年3月31日 閉校 (107年の歴史に幕)
こちらは大東分校廃校より1年遅れの昨春に廃校となりました。

こちらは5・6年生は本校に通うため、1~4年生のみが分校に通っていました。
閉校時の生徒数は13人(1~4年生)です。
こちらは廃校まだ間もないので、校舎もそのまま残っていました。
これは今後どうするのでしょうか?

こんなに近くに2つの小学校分校があったのには訳があります。
大東分校の住所は香取市附洲新田(つきすしんでん)1356-1で市町村合併前の佐原市です。
一方利北分校は香取市一之分目(いちのわけめ)番外7-3でもとの小見川町です。
大東分校は新島小学校がもっと西にありこのあたりは水郷地帯で舟を使ったりした移動が必要で一番離れた東端に分校を建てたものと思われます。
一方利北分校の本校は利根川の南側にあり、通うには利根川を舟で渡らねばなりません。
この中州の開拓地帯の歴史は古く、江戸時代に国の政策として開墾がすすめられたようです。
そのため、開墾農民が暮らすこのエリアにかなりの人が暮らしており、便宜を図るために分教場が設けられたと考えられます。
でもそんなところは日本中たくさんあり、分校もほとんどは統合されたり、独立した小学校となったりしています。
地元の分校はそこに暮らす人の子供たちや親にとってかなり利便性が良かったのでしょう。
それもとうとう少子化と全国の学校の統廃合がすすめられていく渦の中に巻き込まれてしまったのだと思います。
利根川の南側に国道356号線(利根水郷ライン)を佐原から小見川方面(銚子方面)に走っていくとバス停などの標識に「一之分目」(いちのわけめ)と「三之分目」(さんおわけめ)という」地名が出てきて「あれ?」という気がします。
いまどきの地名としては少し古いイメージですよね。
どういう訳か「二之分目」という」地名はないようです。
江戸時代に区画整理をした時につけられた区分名が村名(一之分目村など)となり、そのままいまは香取市の住所となって残されています。
この地域が利根川北側の中州側の低地と、南側の地域に分断されましたが、行政としては一体に運営されてきたことが推察されます。
江戸時代に入り徳川家康の命令で利根川は江戸湾から銚子に流れが変えられたのです。
こんな分校の廃校ということから、私は昔はどんな暮らしがここにはあったのかを少し考えさせられました。
もう少し調べて記事を書きたいと思っていましたがなかなか手が進みません。
記事が古くなってしまいますのでまずは感じたことなどを綴ってみました。
再利用がうまくいくと本当はいいのですが・・・。
応援しておきました。ポチッ
私の卒校も 両隣3校が集まって2校になる
どちらの学校も
うちは 残してよ
いい加減 もめております
寂しい限りですよ
廃校はたくさんあるのですが、なかなか再利用がうまくいっていませんね。
まあ屋内型の農業プラントなんかも面白いのですが、ほとんどやらないですね。
よいアイデアがあればいいですね。
全国で統廃合が進んでいますね。
私の頃は逆で新しいところがどんどんできた。
これも少子化でしょうね。
ここは100年も分校で存続していたことが驚きでした。
どちらにしても自分の卒業した学校がなくなるのはさびしいですよね。
コメントありがとうございました。
このあたりは詳しいのですか。
小見川町ですね。同じ町が利根川で分断されていますね。
小見川大橋は息栖のところですよね。
あの途中を狭めた柵は恐いですね。最初は緊張しました。
2校の廃校は、何とも寂しい限りです・・・。
私の出身中学校も昨年辺りから壊す予定と聞き、哀しいです。
何か存続出来る方法が、無いのかとつい思ってしまいます。
一寸、生意気な事を書き込んでしまいすみません。
また、お邪魔します。
Romanさんをはじめご家族の皆様どうかお身体御自愛下さい。
では・・・・・
石岡も有明中が廃校で、城北中もなくなると聞いて先日行ったらまだありましたがこの春まででしょうか。
私の頃(団塊世代)は大変でした。
急ごしらえで教室は増やすし、新しい学校もたくさんできました。
今の逆ですね。
卒業生も学校が無いと寂しいでしょうが、仲間は変わりませんから集まるのでしょうね。
地元近くに住めば昔のお友達もいるでしょうね。
私はそのような思いをしたことが無いので少しうらやましいです。