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大空にはばたく夢を見た訓練所

 かつて石岡に飛行場が2か所あったのを御存じであろうか。

大空にあこがれた者たちが訓練をする半の木の滑空訓練所と今の市役所の北側の海軍石岡東ノ辻飛行場だ。

今回この半の木の滑空訓練所跡地に行って見た。

ここには現在法政大学の運動場がある。

航空03

ここにその記録を記した石碑と嘗ての校歌が石碑に刻まれている。

航空04

昭和15年(太平洋戦争突入の前年)に帝国飛行協会(後の大日本飛行協会)の中央滑空訓練所が作られた。

最初は滑空という名前の通りエンジンのないグライダーの訓練所という位置づけだったようだ。

場所は石岡市の半の木で、石岡駅と羽鳥駅の中間だが羽鳥駅の方が大分近い?
まわりに何もなくこの場所が選ばれたのは、この地域の上昇気流などの条件が滑空に適していたことによるものだという。
当時も「陸の孤島」などと言われるように駅まで歩けば1時間以上かかるし、まわりに娯楽施設など何もない。

私が石岡に来てこの「半の木」という名前を聞いたのはここに市営の「半の木霊園」と「ダチョウ王国」がある事だけであった。

この中央滑空訓練所に戦争が激しくなってきた昭和19年に「大日本滑空工業専門学校」が設立された。
生徒数50名ほどの若者が全員寄宿生活を送ったという。
教授陣などに当時航空業界で有名な人たちを迎えて訓練や講義が行なわれ、日本の滑空技術の指導者などを養うことなどを目的としたようだが次第に航空兵を養成することに主眼が移されていった。

しかし終戦(昭和20年)を迎え、この専門学校も同年10月に名称を「筑波工業専門学校」と変えた。
そして軍の関係者などを排除して翌年には筑波中学校を併設し、合わせて「筑波学園」となった。
この当時はこの地で小学校から大学(または専門学校)までの一貫教育の学校を理想に掲げていたようだ。

しかし経営はうまくいかず昭和23年には法政大学と合併され、この地は「法政大学予科石岡分校」となった。
筑波中学は法政大学三中となり翌年は法政大学三高(新制)となったが、昭和30年でこの地での生徒は廃止され、法政大学の運動場として現在も続いている。

航空05

筑波学園の校歌だと思うが、「筑波学園の歌」である。
昭和21年6月 作詞:多田勲生、作曲:古関祐而、歌:安西愛子

作詞の多田勲生は学園の教授。古関祐而は言わなくてもわかる作曲家。また安西愛子はNHKの歌のおばさんから後に参議院議員となった。
この顔触れを見ても当時の意気込みがわかる。

航空06

今この碑が置かれているのは「法政大学石岡総合合宿所」の建物の入口である。

航空01

法政大学も学生がここに来るのは少し不便かもしれない。
利用者がどのくらいいるのかはよくわからない。
以前石岡にまだ銭湯(二十三夜尊の敷地の隣り、仲の湯)があった頃は学生がバスでやってきて入って行ったなどということも聞いた。

この銭湯も10年ほど前になくなったようだ。

航空02


石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/01/20 20:30
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