宝幢院(旧玉造町)
行方市のホームページで市の文化財一覧を見た。
その中から少しずつ見て回ることにした。
まずは旧玉造駅に近い宝幢院(ほうどういん)に行った。
少し狭い道を登って行った高台にあった。

住宅が連なる細い坂道を登ると突き当りのような場所に山門が見えた。
「天台宗 笠掛山 宝憧院」と刻まれている。

入口の山門は仁王門で珍しい石の仁王像が置かれていた。

吽型

ここにはこの銅鐘が県指定の文化財となっている。

1431年というので室町時代?
常陸大掾氏族である行方四頭(行方、島崎、麻生、玉造)の一頭 玉造氏が寄進したものだという。

寺の歴史を調べると、ここに宝幢院は玉造の祭りの中心となっている市街地に近い「大宮神社」の神宮寺として建てられたようです。
「この神宮寺は、西蓮寺を開山した最仙上人によって、延暦24年(805年)に創建されたと伝えられています」との説明がありました。
大宮神社そのものの創建が何時ごろなのかわかりませんが、西蓮寺はこのブログでも何回か紹介してお、延暦元年(782年)の創建と伝えられます。
しかしこの神宮寺も、その後年月を経て荒廃も進んだのでしょう。
観応2年(1351年)、京都比叡山延暦寺の東範和尚が来往した際、この神宮寺の荒廃を嘆いて再興し、寺も「宝幢院」となったようです。

その後玉造氏の保護を受け、この鐘の寄進(13代玉造憲幹)になったものです。
(※訂正追記:この鐘の寄進者が玉造氏13代の憲幹とすると、寄進されたという1431年と年代が合いません。憲幹は百年ほど後の時代の人物であるとのご指摘を受けました。市や県の教育委員会の説明は全てこの看板の内容と同一であり、一考を要すると思われます。 2016.3.1 訂正)
なかなか見事な(銅)鐘です。
鐘の口径は77cm、竜頭までの高さは140cmです。

天台宗の寺ですから禅寺だと思うのですが多くの観音像が目につきました。
その中から少しずつ見て回ることにした。
まずは旧玉造駅に近い宝幢院(ほうどういん)に行った。
少し狭い道を登って行った高台にあった。

住宅が連なる細い坂道を登ると突き当りのような場所に山門が見えた。
「天台宗 笠掛山 宝憧院」と刻まれている。

入口の山門は仁王門で珍しい石の仁王像が置かれていた。

吽型

ここにはこの銅鐘が県指定の文化財となっている。

1431年というので室町時代?
常陸大掾氏族である行方四頭(行方、島崎、麻生、玉造)の一頭 玉造氏が寄進したものだという。

寺の歴史を調べると、ここに宝幢院は玉造の祭りの中心となっている市街地に近い「大宮神社」の神宮寺として建てられたようです。
「この神宮寺は、西蓮寺を開山した最仙上人によって、延暦24年(805年)に創建されたと伝えられています」との説明がありました。
大宮神社そのものの創建が何時ごろなのかわかりませんが、西蓮寺はこのブログでも何回か紹介してお、延暦元年(782年)の創建と伝えられます。
しかしこの神宮寺も、その後年月を経て荒廃も進んだのでしょう。
観応2年(1351年)、京都比叡山延暦寺の東範和尚が来往した際、この神宮寺の荒廃を嘆いて再興し、寺も「宝幢院」となったようです。

その後玉造氏の保護を受け、この鐘の寄進(13代玉造憲幹)になったものです。
(※訂正追記:この鐘の寄進者が玉造氏13代の憲幹とすると、寄進されたという1431年と年代が合いません。憲幹は百年ほど後の時代の人物であるとのご指摘を受けました。市や県の教育委員会の説明は全てこの看板の内容と同一であり、一考を要すると思われます。 2016.3.1 訂正)
なかなか見事な(銅)鐘です。
鐘の口径は77cm、竜頭までの高さは140cmです。

天台宗の寺ですから禅寺だと思うのですが多くの観音像が目につきました。
丁度私のブログで宮ヶ瀬遺跡群の長福寺址から出た梵鐘鋳造遺構をちょっと取り上げたばかりでしたので、江戸時代に改鋳が行われたという所に興味を抱きました。
行方市の位置からだと船が比較的使いやすい位置関係にありそうですから、江戸まで割れた梵鐘を送って改鋳してもらって送り返す、という可能性も高そうですね。江戸から鋳物師を呼び寄せて境内で改鋳を行うのであれば、それなりの儀式を行ってということになりそうですが、どちらだったでしょうね。
> 行方市の位置からだと船が比較的使いやすい位置関係にありそうですから、江戸まで割れた梵鐘を送って改鋳してもらって送り返す、という可能性も高そうですね。江戸から鋳物師を呼び寄せて境内で改鋳を行うのであれば、それなりの儀式を行ってということになりそうですが、どちらだったでしょうね。
江戸時代の初期に利根川を銚子の方に流れを変えて関宿経由で江戸川へ舟で運べたと思います。
この霞ケ浦には48津といわれるほど湊が多く、舟で運んだ可能性は大です。
玉造も立派な湊でした。
江戸初期にどの程度の物が運べたかはわかりませんが、これくらいなら運んだでしょう。
江戸から職人を呼んでやるということは多分なかったと思います。
鋳込の技術はあっても熱処理などを考えると出張しての修理は無理だったと思います。
(まったくの推察です)
コメントありがとうございました。
余計なコメントかも知れませんが、玉造憲幹(別名正勝・?~1566)が永享3(1431)年に鐘を寄進することはあり得ないので、頼幹(別名常幹・?~1452)だろうと思います。鐘に彫られているとすると、鋳直すときに間違えたのかも…。『玉造町史』でも憲幹ですし、教育委員会も案内板を訂正しないようです。
ご参考までに。
> 余計なコメントかも知れませんが、玉造憲幹(別名正勝・?~1566)が永享3(1431)年に鐘を寄進することはあり得ないので、頼幹(別名常幹・?~1452)だろうと思います。
確かに13代の憲幹では時代的に合わないですね。
年代が100年間違っているか、寄進者が違っているか?
それにしても教育委員会も県の文化財ですからそんないい加減な登録がなされる物なのでしょうか。
市の教育委員会も県の教育委員会も同じように表示されていますね。
ご指摘多謝いたします。
鐘に彫られているとすると、鋳直すときに間違えたのかも…。『玉造町史』でも憲幹ですし、教育委員会も案内板を訂正しないようです。
>
> ご参考までに。
・・・教育委員会は学芸員の資格は持っておられると思います。
石岡もあまり変わりません。
ほとんどが学校の先生出身ですね。
ただ、どうも市町村で壁を作ってしまいあまり交流がないようにも見えます。
つくば、土浦などと比べると地域同士の交流会(博物館など)も少ないように思います。
徐々に変わっていってほしいのですが、地域住民の意識もまだそこに達していないようです。
行方はお芋のセンターのように物産販売では元気のように思います。