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化蘇沼稲荷神社(2)

 化蘇沼(けそぬま)稲荷神社の続きです。
稲荷神社ということで本殿、拝殿ともに柱などは全て赤ですが、たくさんの鳥居が並ぶようなものはありません。
でも敷地も建物もかなり厳かな雰囲気があります。

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この神社の建物が行方市の有形文化財に登録されています。

また手前にある古木はモミの木で幹回り約4m、樹高約16m、樹齢は約360年といわれており、市の天然記念物に指定されているそうです。

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本殿屋根は赤銅葺き、拝殿屋根は亜鉛板葺きで、柱はすべてケヤキだそうです。
創建は文明10年(1478)と言われています。

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 ・この道やゆく人なしに秋のくれ (芭蕉) の句碑が境内にあったのだとか・・・・ 

また文化14年(1817)に小林一茶がこの寺を訪れているそうです。


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こちらが赤銅葺き屋根の本殿。
形の良い造りです。

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この神社の裏手に立派な土俵がありました。
この稲荷神社は別名「関取稲荷」といわれるようで、昔から相撲が盛んだったようです。

特に天保年間(1830~1844年)にこの町出身の秀ノ山雷五郎(四代目秀ノ山親方)が生まれ、ここで奉納相撲をしたことで豊作を祈願する行事と合わさって盛んになったといいます。

今でも毎年夏に子供たちの相撲大会や巫女舞などが行なわれているといいます。

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常陸風土記の行方の芸都(きつ)の里の話がここに書かれていました。

「 当麻より南に、芸都(きつ)の里がある。昔、寸津比古(きつひこ)、寸津比売(きつひめ)といふ二人の国栖がゐた。寸津比古は、天皇(倭武天皇)の巡幸を前にして、命に逆らひ、おもむけに背いて、はなはだ無礼な振る舞ひをしたので、剣の一太刀で討たれてしまった。寸津比売は、愁ひ恐こみ、白旗をかかげて道端にひれ伏し、天皇を迎へた。天皇は憐れんでみ恵を下し、その家をお許しになった。更に乗輿を進め、小抜野(をぬきの)の仮宮に行かれるときに、寸津比売は、姉妹をともに引き連れ、雨の日も風の日も、真の心を尽くして朝夕に仕へた。天皇は、そのねんごろな姿をお喜びになり、愛はしみになったことから、この野をうるはしの小野といふやうになった。」(口訳・常陸国風土記より)

この化蘇のあたりがこの地の佐伯、国栖(くず)などを征服した様子がえがかれている「芸都(きつ)の里」ということらしいです。

でもこの像は何を表しているのでしょう。風土記の編纂1300年記念は2013年でしたからもう2年前になってしまいますね。
祈念事業としてこのようなモニュメントを造ったのでしょうが、像は明らかに男女ですが男性は大和民族の若武者のように見えます。
寸津比古(きつひこ)、寸津比売(きつひめ)とは見えません。

このお話では寸津比古は逆らって殺されてしまいます。
寸津比売の部族は倭武天皇(ヤマトタケル)に服従し、仲間となりこの地を治めた。

男性はヤマトタケルで女性が寸津比売なのでしょうか・・・・・ 

玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/01/27 20:11
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