小幡観音寺(1)
さて、行方の散策の続きだが、このあたりを訪れようと思った目的の第1は今回紹介する小幡にある「観音寺」に行くことであった。
まとめる時間もあまりないので少しずつ進めることにしたい。

この観音寺の入口の仁王門から紹介しよう。
行方市指定の有形文化財だ。

市の説明では「室町時代の末から桃山時代にかけて、中央の建築文化が浸透する前に、早くから関東地方に伝わった建築様式で建てられており、地方色そのものが残されている貴重な建造物です。」と書かれている。

観音寺の創建は大同3年(808年)。
満海上人が建てたものだという。
伊達政宗(独眼竜)が満海上人(右目を失明していたといわれる)の生まれ変わりだという逸話があるが、その満海上人なのか?
また忍性(にんしょう)が、この寺を文応元年(1260年)に中興したと伝えられる。
私が忍性のことを知ったのは茨城県河内町に「十三間戸(まど)」という地名があり、奈良北山にある十八間戸(けんと)を調べたことがあります。
この十八間戸は奈良西大寺の忍性がらい病患者のために作った施設で1間(けん)ほどの部屋を連ねた集合住宅のような建物です。
これで忍性がどのような人物かを知ったのです。

この忍性が常陸にやってきていたのです。
関東にやってきた忍性は筑波山山麓の三村山清冷院極楽寺に入り、常陸国に律宗を広めたのです。
この三村山清冷院極楽寺は今は無く、中世の律宗寺院の聖地として今では「まぼろしの大寺」と伝えられています。
調べて見ると小田氏の信頼を受けた忍性が建長4年(1252)から10年間この極楽寺に滞在して東国の布教に当たったといいます。
こんど小田城跡とともにもう少し調べて見たいと思います。

こんなところに歴史がつながっているのですね。
感慨深いものがあります。
気候がよくなったら宝篋山(ほうきょうさん)にでも登って小田や筑波の風景を眺めて見たいものです。
(続きます)
まとめる時間もあまりないので少しずつ進めることにしたい。

この観音寺の入口の仁王門から紹介しよう。
行方市指定の有形文化財だ。

市の説明では「室町時代の末から桃山時代にかけて、中央の建築文化が浸透する前に、早くから関東地方に伝わった建築様式で建てられており、地方色そのものが残されている貴重な建造物です。」と書かれている。

観音寺の創建は大同3年(808年)。
満海上人が建てたものだという。
伊達政宗(独眼竜)が満海上人(右目を失明していたといわれる)の生まれ変わりだという逸話があるが、その満海上人なのか?
また忍性(にんしょう)が、この寺を文応元年(1260年)に中興したと伝えられる。
私が忍性のことを知ったのは茨城県河内町に「十三間戸(まど)」という地名があり、奈良北山にある十八間戸(けんと)を調べたことがあります。
この十八間戸は奈良西大寺の忍性がらい病患者のために作った施設で1間(けん)ほどの部屋を連ねた集合住宅のような建物です。
これで忍性がどのような人物かを知ったのです。

この忍性が常陸にやってきていたのです。
関東にやってきた忍性は筑波山山麓の三村山清冷院極楽寺に入り、常陸国に律宗を広めたのです。
この三村山清冷院極楽寺は今は無く、中世の律宗寺院の聖地として今では「まぼろしの大寺」と伝えられています。
調べて見ると小田氏の信頼を受けた忍性が建長4年(1252)から10年間この極楽寺に滞在して東国の布教に当たったといいます。
こんど小田城跡とともにもう少し調べて見たいと思います。

こんなところに歴史がつながっているのですね。
感慨深いものがあります。
気候がよくなったら宝篋山(ほうきょうさん)にでも登って小田や筑波の風景を眺めて見たいものです。
(続きます)
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