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大麻神社(麻生)

 行方市の麻生の街中に近いところに「大麻(おおあさ)神社」があります。

大麻は「たいま」とは読ませないようで「おおあさ」と読ませています。
麻は総(ふさ)と同じで千葉県東部からこの地域に徳島(阿波=粟)からやってきた種族(忌部氏)などが麻を広めていったと思われます。

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通りに面して入口の鳥居があります。
この隣りは行方警察署(旧麻生警察署)です。

入口に神社の説明が書かれています。

大麻神社(おおあさじんじゃ)

「常陸国風土記」に「麻生の里、古昔、麻、渚沐(なぎさ)の涯(きし)に生ひき。
囲み、大きなる竹の如く、長さ一丈に余れり」とある。
これが即ち麻生の地名のいわれで、また、本社社名の由来と伝えられる。
御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)の二柱の神の他に五柱の神々を祀る。
十月の第三、土・日・月の三日間、祭典が行なわれる。
付近にある大宮貝塚は、猪・鹿・狸・鯨の骨・人骨などが、貝殻と共に出土する縄文時代の集落跡である。」

ここでも鹿島と香取の祭神がともに重要な神としてまつられている。

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通りから鳥居をくぐって階段を登る。
両脇には古木がこの神社の古さを感じさせる。

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伊勢神宮(皇大神宮(内宮))のお札を一般に「大麻(たいま)」というようですが、これもお祓いの時に使われる大麻(おおぬさ)の名前から来ているそうです。
きっといろいろなところでつながっているのでしょう。

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行方市のHPでのこの神社の由緒などでは
「この神社は地元では「大宮様」と称され、創祀は大同元年(806)と伝えられ、祭神は武甕槌経津主命、手力男命、大宮姫命、倉稲魂命、市杵島姫命、水速女命の七柱です。
当時、蝦夷遠征の戦勝祈願のために征夷大将軍坂上田村麻呂が北関東に神社を寄進しており、近くには武甕槌命を祀る鹿島神宮や経津主命を祀る香取神宮が鎮座していたため、麻生の里にも武勇の神を祀ったものと考えられます。」
と書かれています。

あまりしっくりしませんが大同元年・二年頃にはたくさんの神社が全国に広まりました。
そして蝦夷征伐の軍神の象徴として鹿島の神を祀る神社が増えました。

また「仏教が地方へ伝播されると地域の人々の依り代である神社と結びつき神仏習合の信仰が広がりました。
麻生地方の郷社であった大麻神社の別当として神宮寺、後の東光寺(現在の医王山蓮城院)が誕生し中世まで続きました。
又、大麻神社と神宮寺は、中世当地方を支配した常陸大掾庶流麻生氏の居城である羽黒山麻生城の北東鬼門に位置し、麻生氏一族への災いを防ぐ信仰の地となっていたのでした。
江戸時代に近江国から外様の麻生藩新庄氏が入部すると、麻生地方の人々の心の拠所で郷社であった大麻神社を庇護するとともに、氏神として諏訪神社を勧請しました。また、麻生陣屋の南西裏鬼門には八坂神社を勧請して、馬の産地の特性を活かし疫病除けの馬出し祭を興し、今日まで伝統行事として受け継がれてきたのでした。」と書かれています。

常陸国風土記でも「行方の馬」としてこの地方を馬の産地として紹介しています。

「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
 飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)

そういえば香取神宮の北東にある側高神社に伝わる話として「茨城の馬を集めて(盗んで)、連れて来た時に潮の満ち引きを利用して馬を連れてきたため、追手は渡って追いかけることができなくなった」という話があったのを思い出した。
(これは浮島の話だと思ったが少し違うのかもしれない)

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麻生 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/10 19:36
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