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一閑寺(玉造)(2)

 行方市の旧玉造町市街地にある「一閑寺」を昨日に引き続いて紹介します。

この行方という地名はこの地に関係のない方は読めないかもしれませんね。
「なめがた」と読みます。石岡にも行里川という地名があり「なめりかわ」と読みます。

でもこの行方は大変古い名前で常陸国風土記にも

「難波の長柄の豊崎の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の白雉四年に、茨城の国造 小乙下 壬生連麿(みぶのむらじまろ)、そして那珂の国造 大建 壬生直夫子(みぶのあたひをのこ)らが、惣領高向大夫、中臣幡織田大夫たちに申し出て、茨城と那珂の郡からそれぞれ八里と七里(面積のこと)、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて、行方郡とした」

と書かれています。
白雉四年は西暦653年で大化の改新の7年後です。

また当時からこの名前は珍しかったようで常陸国風土記にも名前の謂れが説明されています。

倭武の天皇(ヤマトタケル)が現原(あらはら)の丘に登ってこの地を見下ろして、「眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方なめかたといふやうになった。」

と書かれています。

しかし、このあたりの地には佐伯の名前から採ったとされる地名が多く残されており、霞ケ浦周辺に大昔から住んでいた縄文人たちの言葉にそのルーツがあるようにも思います。
(佐伯というのは、朝廷に逆らっている民族と言うような意味合いでつけられた言葉だと思います。)

さて前置きが長くなりましたが、一閑寺の本堂内部をご住職がご案内してくださいましたので紹介します。

一閑寺11

正面に向かう真中の部屋の彫刻は12支の彫刻がぐるりと彫り込まれています。
これらの彫刻は全て、表裏両面から眺められるようになっています。

一閑寺12



一閑寺13

一閑寺14

向かって左右の部屋にはお釈迦様の一生を表した4枚の彫刻が並んでいます。
上の写真は「お釈迦様の誕生(天上天下唯我独尊)」です。

一閑寺15

修業(苦行して釈迦となった)時代

一閑寺16

布教・伝道時代

一閑寺17

入滅(娑羅双樹の下で数人の弟子に看取られて)。80歳

一閑寺18

天女

一閑寺20

一閑寺19

こちらは改築前の壁面彫刻(入り口の内側に数枚飾ってありました)。色を塗りなおして飾ったそうです。
こちらも素敵な彫刻でした。

ご住職には本堂の戸をわざわざ開けて、ご案内いただき感謝申し上げます。

玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/21 18:00
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