小見川散歩(4)-善光寺
今日は温かくなりました。来週も温かくなるようで桜も開花が早まりそうです。
きょうもまた銚子まで出かけてきて帰りが遅くなりました。
ブログも少し休もうかとも思うのですが何とかつないで行こうと思います。
小見川の散策の続きですが、街中にある「善光寺」は長野の善光寺が鎌倉時代に武士社会が広まると関東にこの善光寺仏(阿弥陀三尊)を信仰する寺が増えたようです。
しかし善光寺と名のつく寺はそれ程多くはなく、「新信善光寺」という名で広がっています。
ここ小見川は「善光寺」とそのままです。
全国善光寺会の会員紹介ページによると
「開山由緒 天正4年丙子の年(1576)上州川中島善光寺の沙門(僧)清賢上人が自性成仏のために年比渇仰の運慶の作金銅三尊を負い奉り、鉦鼓を襟にかけて、六十六ヶ国を廻り六十六部の妙典を奉納し終に当地に来られました。
此の地は砂平にして水の流れ清く、春の花、秋の紅葉開落無常をしめし、真に心をなごませました。そこで上人庵室の扉を開き本尊を安置し奉り、念仏の行をおこたりなく終りしに善光寺と名ずけられました。」
と書かれています。
今年は長野善光寺は7年御開帳となり、メディアなどでも取り上げられています。
しかしこの長野の善光寺での御開帳は本尊はほとんど見た人がいません。
絶対秘仏として公開されませんし、それを模したという身代わり本尊を公開しているようです。

ここ小見川の本尊も阿弥陀如来三尊のようですがどのようなものなのでしょう。

鐘楼と右が薬師如来堂。

境内に「腹切り様」と少し物騒な名前の碑があります。


説明は下記の看板に書かれています。

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(安永年間、小見川一の豪商回船問屋の平塚屋は、内田藩1万石の御用商人であつた。その一人娘の弥生は、小見川小町といわれるほどの美人で、気立てのよい評判の娘であった。
ところが、不治の病に罹り、医薬を尽くすが、痩せ衰えていくばかりであった。そんなとき、吉野屋という旅籠に泊まっていた江戸の医学生、源之進が治療を依頼され、もし病気が治れば望みは何でも叶えるとの確約をした。
そこで、源之進は、治療に専念し、2ヶ月が経つと、次第に弥生が食欲が出て、回復に向かった。同時に2人は、お互いに恋心を抱くようになった。
そこに、藩の勘定奉行の倅が横恋慕をしたため、結局、2人の恋は叶わなかった。源之進は、平塚家の墓前で割腹自殺をし、一足違いで遅れて来た弥生の喉を突いて果てた。
折り重なって死んだ2人の死に顔は、実に幸せそうで、町に人たちは、あの世で晴れて夫婦になれたと噂し、この墓を「腹切り様」と呼ぶようになった。また、平塚家では、2人の供養のため、山門を寄進し、冥福を祈ったという。
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でもこのような話がこんな物騒な名前がつけられて祀られるものなのか・・・・・・・
歌舞伎の世界などと相まってこれも土地柄なのかもしれません。
やはり当時の回船問屋はかなりのお金持ちであったのかもしれません。
きょうもまた銚子まで出かけてきて帰りが遅くなりました。
ブログも少し休もうかとも思うのですが何とかつないで行こうと思います。
小見川の散策の続きですが、街中にある「善光寺」は長野の善光寺が鎌倉時代に武士社会が広まると関東にこの善光寺仏(阿弥陀三尊)を信仰する寺が増えたようです。
しかし善光寺と名のつく寺はそれ程多くはなく、「新信善光寺」という名で広がっています。
ここ小見川は「善光寺」とそのままです。
全国善光寺会の会員紹介ページによると
「開山由緒 天正4年丙子の年(1576)上州川中島善光寺の沙門(僧)清賢上人が自性成仏のために年比渇仰の運慶の作金銅三尊を負い奉り、鉦鼓を襟にかけて、六十六ヶ国を廻り六十六部の妙典を奉納し終に当地に来られました。
此の地は砂平にして水の流れ清く、春の花、秋の紅葉開落無常をしめし、真に心をなごませました。そこで上人庵室の扉を開き本尊を安置し奉り、念仏の行をおこたりなく終りしに善光寺と名ずけられました。」
と書かれています。
今年は長野善光寺は7年御開帳となり、メディアなどでも取り上げられています。
しかしこの長野の善光寺での御開帳は本尊はほとんど見た人がいません。
絶対秘仏として公開されませんし、それを模したという身代わり本尊を公開しているようです。

ここ小見川の本尊も阿弥陀如来三尊のようですがどのようなものなのでしょう。

鐘楼と右が薬師如来堂。

境内に「腹切り様」と少し物騒な名前の碑があります。


説明は下記の看板に書かれています。

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(安永年間、小見川一の豪商回船問屋の平塚屋は、内田藩1万石の御用商人であつた。その一人娘の弥生は、小見川小町といわれるほどの美人で、気立てのよい評判の娘であった。
ところが、不治の病に罹り、医薬を尽くすが、痩せ衰えていくばかりであった。そんなとき、吉野屋という旅籠に泊まっていた江戸の医学生、源之進が治療を依頼され、もし病気が治れば望みは何でも叶えるとの確約をした。
そこで、源之進は、治療に専念し、2ヶ月が経つと、次第に弥生が食欲が出て、回復に向かった。同時に2人は、お互いに恋心を抱くようになった。
そこに、藩の勘定奉行の倅が横恋慕をしたため、結局、2人の恋は叶わなかった。源之進は、平塚家の墓前で割腹自殺をし、一足違いで遅れて来た弥生の喉を突いて果てた。
折り重なって死んだ2人の死に顔は、実に幸せそうで、町に人たちは、あの世で晴れて夫婦になれたと噂し、この墓を「腹切り様」と呼ぶようになった。また、平塚家では、2人の供養のため、山門を寄進し、冥福を祈ったという。
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でもこのような話がこんな物騒な名前がつけられて祀られるものなのか・・・・・・・
歌舞伎の世界などと相まってこれも土地柄なのかもしれません。
やはり当時の回船問屋はかなりのお金持ちであったのかもしれません。
初め 腹切り様と書かれているのを見て 不気味なイメージを持ちました。
「賭死純愛」と言うのでしょうか 死を賭して得心できない不条理な力と戦い 懼れずに天上での愛を信じて死んでいった 若い二人の命をいとおしみながらの墓標であってほしかったとちょっと ネーミングが残念に思いました。
Romanさんの 丹念で広範囲な毎日の取材のお蔭で 沢山の神社・仏閣の建物や史実を知ることができます。
あまり広く知られていない小さな社や祠にもそれぞれの歴史があり それらをこうして記録にとどめていくことは大切で とても意義深いことだと しみじみ思っています。
お疲れのたまりませんようご自愛下さいませ。
> 初め 腹切り様と書かれているのを見て 不気味なイメージを持ちました。
誰でも今はそう感じるでしょうね。私も同じ思いでした。
これもこの地が水運で江戸と結ばれ、利根の川風を感じる地であったことが影響しているように思います。
この隣り町が笹川で天保水滸伝で伝わる笹川繁蔵親分が大利根河原の決闘で一時は名前が知られた場所です。
もう言の葉さんは三波春夫の歌(大利根無情)はあまりご存じないかもしれませんね。
> あまり広く知られていない小さな社や祠にもそれぞれの歴史があり それらをこうして記録にとどめていくことは大切で とても意義深いことだと しみじみ思っています。
ありがとうございます。
まああまり面白くもない場所ですが、どこか昔の人の思いが伝わってくるところなのです。
そんな思いを感じていただけただけで勇気百倍です。
ありがとうございます。
まあ暇つぶしでもありますので、こうしていることが元気でいられるのだとも思いながらやっています。
お心にかけていただき感謝申し上げます。