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銚子への道すがら(2)

 国道355号線を霞ケ浦の北岸沿いに潮来の方に向かいます。

玉造の町を過ぎて真っ直ぐなバイパス道路が続きます。
信号が少なく交通量も多くは無いので気持ち良く走れますが、旧道は平行に山側をくねくねと走っています。
山百合の里で大分知られるようになってきた古刹「西蓮寺」の辺りを過ぎてまわりは低地で田圃などが広がりますが、その中にポツンと木の生い茂った場所があります。

そこがヤマトタケル伝説のある「玉清井(たまきよのい)」です。
桜の木はまだ芽が少し膨らみかけた程度でした。

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この石の鳥居や狛犬などは昔見た時はなかったかもしれません。

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この木々に囲まれた小さな池が昔から清い水が湧き出している場所だったのです。
残念ながら今は水はきれいとは言えません。

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この椎の古木(?)が年代を感じるものくらいでしょうか。

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ここ行方(なめがた)は常陸風土記などでもヤマトタケルの伝承が多く残っている地域です。

行方(なめかた)の名前の謂れについては諸説あるようですが、常陸国風土記では

「さらに車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)といふやうになった。」
(口訳・常陸国風土記より)

と書かれている。

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この玉清井については、

「昔、倭武の天皇が、天の下を巡幸され、霞ケ浦より北を言向けられたとき、この国を過ぎ、槻野の清泉(いづみ)に出たとき、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といはれ、今も行方の里にある。」

とあり、倭武の天皇はヤマトタケルのことを指すとされています。

この行方の地名では井上は恐らくこの井戸の上の方にあるためについた名前でしょうし、提賀の里=手鹿(手賀)や駅家の置かれていたという曾尼(そね)などもみな昔この地に住んでいた佐伯の名前だと書かれています。
ただ駅家(うまや)の曾尼という地名は今は残っていません。

佐伯はヤマト王朝の意向に従わない人々ということで呼ばれていた名前です。
この地が比較的遅く大和民族により制圧されたために比較的多くの伝承が残ったものと思われます。

関連記事:

1、府中六井(番外2)-玉清井(2011.7.19)
2、現原の丘(あらはらのおか)(2011.7.23)



銚子への道すがら | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/03/16 18:36
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