銚子への道すがら(3)

 今回の銚子へ行く時に何を調べようかを考えていた。

最近吉田松陰がテレビなどで取り上げられた影響か少しブームになっているようで、銚子でもこの名前を読んだ事を思い出した。

当然松陰と言えば、山口県萩か東京がその関係地として浮かぶが銚子にも来た記録がある。

それを少し調べていたが、これは23歳の時に脱藩の罪に問われた東北遊学の時だと知った。

吉田松陰は山鹿流の兵学の勉強をかなりしていたようだ。

私のいる石岡もこの山鹿素行が赤穂藩に蟄居させられた時に書いたとされる「謫居童問」に、日本三大名古城の一つだとされた場所だ。(昔の記事:こちら

山鹿素行は会津若松に生まれた。
そしてその後山鹿流兵法は、九州平戸に踏襲され、松陰はこの平戸に出かけている。

そこで知り合った山鹿流兵学者であった宮部鼎蔵(みやべていぞう)と意気投合して東北に行くことを盟約した。
ところが出かける予定になっても通行手形の藩札が間に合わず、手形を持たずに出かけて脱藩したとみなされた。

この宮部鼎蔵はその13年後に池田屋事件で新撰組に襲われ、自刃した人物だ。

東北遊学は4ヶ月間にわたって北の外れまで足を延ばして見聞を広めている。
一体どのようなものだったのだったのだろうかとネットを検索して見たらその時に書いた「東北遊日記」がデジタル版で公開されていた。

松陰はかなりこまめにこの時の事を「東北遊日記」に書いている。
しかし、文は全て漢文で読むのは大変。

嘉永4年(1851)12月14日に江戸を出立し、水戸街道を進み筑波山などに寄りながら水戸に行きます。
水戸ではいろいろ滞在してあちこちにも出かけていますが、1月5日古奈地(子生)から汲上にでて海岸の砂浜を歩いて鹿島に行ったようです。
そして潮来、牛堀を経て、船で刀根川(利根川=常陸利根川)を船で銚子に向かいます。

この全文は近代デジタルライブラリー(こちら)で読むことができます。

松陰04

牛堀から船にのりますが、息栖でもう夕方になり食事をとるために一旦船を下りています。

そしてそこから銚子の手前の松岸に到着した時はもう二鼓だと書いています。
二鼓は夜を2時間づつ5つに分類した2つ目の時間というので今のよる9時過ぎくらいでしょうか。

松岸で宿泊し、翌日銚子に出かけてまた松岸に戻って泊まっています。

松岸には何があったのでしょうか?
良くこの場所は通っているのですが、今は特に何もないように見えます。
これを少し探ってみたいと思いました。

松陰の帰りは息栖、玉造でそれぞれ1泊して水戸に戻っています。
(漢文を見ただけですので解釈が違っているところや間違ったこともあるかもしれません。)

松岸は銚子に行く時にここの船着き場で下りて、銚子へ行くのは普通だったようです。
次回はこの松岸周辺を少し歩いてみます。

松陰01

1月5日~8日 (水戸~鹿島~潮来~牛堀~息栖~松岸~銚子)

松陰02

1月8日~11日(銚子~松岸~息栖~玉造~水戸)


銚子への道すがら | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/03/17 19:58
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