銚子への道すがら(4)-松岸
銚子駅の1つ手前の駅に「松岸」駅がある。
総武本線と成田線がこの松岸駅手前で一緒になり銚子駅まで伸びている。
この松岸は今まで何回も通っており、銚子港に行く時はこの松岸駅の手前で海岸沿いの道に出て旧市街地を走って向かう。
食事処を探したりもしているがあまり情報は無い。
途中で「なべや」という伊達巻を作っている鮮魚店があるが今まで買ったことはない。
この松岸に昔は利根川の船着き場があったはずなのでどの辺りか見当をつけ、「石毛川魚店」という看板を目当てに路地を入って行った。
この川魚店は思ったより大きなお店で天然ウナギのかば焼きを売ったりしているそうだ。
最近利根川の流域もすっかり鰻が採れなくなったようだが、最近鰻を扱うお店には「値下げ」の表示がされている所が多くなってきたようなのでたまには鰻も食べたい。
まあそんな思いでこの川魚店の前を通り、川岸に出た。

河岸はコンクリートのブロックなどで固められ、モータースクール?などと書かれた看板があり、受付の小屋もあったが、誰もいなかった。

川辺に上のような看板が経っており、ここが海ではなく川であることがわかる。
しじみ漁はここから上流だけで、下流は漁をしてはいけないとなっている。
ただ、手で掘るのはOKとなっている。何となくこんなものも面白いと感じた。
対岸は茨城県神栖町だ。

川の上流を眺めた。ここを吉田松陰などは川を下ってきたという。
そして夜9時頃にこの港に着いた。
時期は旧暦1月(今の暦では2月?)で寒い時だし、夜も早く暗くなっていたと思う。
その時にこの港は賑やかだったのだろうか?
そんな事を思いながら誰もいないまわりを眺めて見た。

こちらは下流の銚子方面を眺めた。
松陰たちはここで泊まって、翌日は船ではなく歩いて銚子に向かった。
銚子までは約3から4kmであるのでそれほど遠くは無い。

陸側には昔何があったのだろう。
今は「石毛川魚店」の看板が屋根に立てられた家があり、その裏側に大きめの駐車場がある。

この駐車場はこのあたりにはまったく不似合いなきれいな結婚式場が聳えている。
駐車場はこのすぐ前で、この結婚式場の物らしい。

調べているうちに少し昔の様子が見えてきた。
この駐車場がある場所にこの東日本大震災まで「銚子温泉 青野屋旅館」という温泉施設があったという。
昔は銚子温泉と言えばこちらの方だったのかもしれない。
自然湧水 ラジウムなどと書かれた看板があったそうだ。
この辺りでは珍しい硫黄の臭いがする湯だったという。
そして昭和16年までこの場所に「松岸遊郭」があったのだそうだ。
この遊郭は随分古く江戸時代は随分華やかだったようである。
昭和初期までは「芳流閣」や「竜宮城」などという大きな妓楼があり、港からの客を呼び込む施設もあり、芸妓たちの住む場所などもあり、潮来よりもにぎわっていた時期もあったようなのです。
今ではもうまったくそのおもかげはありません。
想像すらできないほど変わってしまっています。
松陰の日記には何も書かれていませんが、この松岸で2泊しています。

松陰のことを調べなかったらきっとこの松岸は何もわからずにいたかもしれません。
車で少し脇道には行ったら道路は行き止まりであったり、昔の海岸付近の様子が少し残る家並みなどもありましたが路は狭くあまり歩きまわると不審者に見られそうです。
街中に小さなお宮が置かれていました。
何か昔のことを語ってくれそうなそんな気がしました。
芸妓達もお参りしていたようなそんな姿が浮かびます。
総武本線と成田線がこの松岸駅手前で一緒になり銚子駅まで伸びている。
この松岸は今まで何回も通っており、銚子港に行く時はこの松岸駅の手前で海岸沿いの道に出て旧市街地を走って向かう。
食事処を探したりもしているがあまり情報は無い。
途中で「なべや」という伊達巻を作っている鮮魚店があるが今まで買ったことはない。
この松岸に昔は利根川の船着き場があったはずなのでどの辺りか見当をつけ、「石毛川魚店」という看板を目当てに路地を入って行った。
この川魚店は思ったより大きなお店で天然ウナギのかば焼きを売ったりしているそうだ。
最近利根川の流域もすっかり鰻が採れなくなったようだが、最近鰻を扱うお店には「値下げ」の表示がされている所が多くなってきたようなのでたまには鰻も食べたい。
まあそんな思いでこの川魚店の前を通り、川岸に出た。

河岸はコンクリートのブロックなどで固められ、モータースクール?などと書かれた看板があり、受付の小屋もあったが、誰もいなかった。

川辺に上のような看板が経っており、ここが海ではなく川であることがわかる。
しじみ漁はここから上流だけで、下流は漁をしてはいけないとなっている。
ただ、手で掘るのはOKとなっている。何となくこんなものも面白いと感じた。
対岸は茨城県神栖町だ。

川の上流を眺めた。ここを吉田松陰などは川を下ってきたという。
そして夜9時頃にこの港に着いた。
時期は旧暦1月(今の暦では2月?)で寒い時だし、夜も早く暗くなっていたと思う。
その時にこの港は賑やかだったのだろうか?
そんな事を思いながら誰もいないまわりを眺めて見た。

こちらは下流の銚子方面を眺めた。
松陰たちはここで泊まって、翌日は船ではなく歩いて銚子に向かった。
銚子までは約3から4kmであるのでそれほど遠くは無い。

陸側には昔何があったのだろう。
今は「石毛川魚店」の看板が屋根に立てられた家があり、その裏側に大きめの駐車場がある。

この駐車場はこのあたりにはまったく不似合いなきれいな結婚式場が聳えている。
駐車場はこのすぐ前で、この結婚式場の物らしい。

調べているうちに少し昔の様子が見えてきた。
この駐車場がある場所にこの東日本大震災まで「銚子温泉 青野屋旅館」という温泉施設があったという。
昔は銚子温泉と言えばこちらの方だったのかもしれない。
自然湧水 ラジウムなどと書かれた看板があったそうだ。
この辺りでは珍しい硫黄の臭いがする湯だったという。
そして昭和16年までこの場所に「松岸遊郭」があったのだそうだ。
この遊郭は随分古く江戸時代は随分華やかだったようである。
昭和初期までは「芳流閣」や「竜宮城」などという大きな妓楼があり、港からの客を呼び込む施設もあり、芸妓たちの住む場所などもあり、潮来よりもにぎわっていた時期もあったようなのです。
今ではもうまったくそのおもかげはありません。
想像すらできないほど変わってしまっています。
松陰の日記には何も書かれていませんが、この松岸で2泊しています。

松陰のことを調べなかったらきっとこの松岸は何もわからずにいたかもしれません。
車で少し脇道には行ったら道路は行き止まりであったり、昔の海岸付近の様子が少し残る家並みなどもありましたが路は狭くあまり歩きまわると不審者に見られそうです。
街中に小さなお宮が置かれていました。
何か昔のことを語ってくれそうなそんな気がしました。
芸妓達もお参りしていたようなそんな姿が浮かびます。
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