銚子への道すがら(5)-川口神社
昨日書いた松岸から吉田松陰たちは1里離れていた銚子の先端の方までやってきました。
その銚子港の外れの山側に「川口神社」があります。
前に紹介した時(こちら1、こちら2)に、この神社は安倍晴明伝説が伝わる神社として紹介しました。
ここに吉田松陰の石碑が置かれているので見てきました。
(前来た時はあまり興味もなくゆっくり見なかったのです)

「松陰先生曽遊之地」の石碑です。
港側から神社まで長いのぼり石段が続きますが、その中間くらいの場所に置かれています。

裏には松陰が東北遊日記に書いた漢詩が彫られています。
この詩はなかなか読むのも難しそうです。
そこでネットを検索していたらこの詩を訳したサイトを発見しました。
(こちら:銚子港 吉田松陰の漢詩(漢詩・詩吟を楽しむ))
これでようやくこの詩も理解することができました。
サイトを作成している方に御礼申し上げます。
肝心の最後の方の一部を転載させていただきます。
何人復有審敵作 何人(なんびと)か復た審敵(しんてき)の作有らん
仄聞身毒与満清 仄(ほのか)に聞く身毒(しんどく)と満清(まんしん)
宴安或被他人掠 宴安(えんあん)すれば或は他人の掠(りゃく)を被(こうむ)らん
杞人有憂豈得已 杞人(きじん)憂あり豈(あ)に已むを得んや
閑却袖中綏邊略 閑却(かんきゃく)袖中(しゅうちゅう)す綏邊(すいへん)の略
強開樽酒発浩歌 強いて樽酒を開いて浩歌(こうか)を発すれば
滄溟如墨天日落 滄溟(そうめい)墨の如く天日(てんじつ)落つ
(解釈)
インドや満州族の清朝(中国)の事をそれとなく聞くが
安逸を貪っていると他国に侵略されるだろう
心配症の者が要らぬ心配するのは已むを得ないのか、否そんな事はない
辺境の敵を防ぐ対策が何もなされていないではないか
無理に樽酒を開けて大声で歌えば
大海原は日が落ちて墨を流した様である
吉田松陰はこの地に来て、このような日本の状態では敵国に侵略されてしまうと大変危惧していたことがわかります。
こんなに無防備では何時侵略されてもおかしくない。すでに他国のうわさも聞いていたようです。

この詩の最後に浜口儀兵衛謹書と彫られている。
現在のヤマサ醤油の代々続いてきた当主が浜口儀兵衛であるが、この松陰がこの地を訪れたのは嘉永5年(1852)1月8日(旧暦)。
この当時は7代目浜口儀兵衛の代で、浜口家の分家から本家に入って家督を相続した人物で、前に「稲むらの火」で紹介したことがある人です。
しかしこの書は10代目の浜口儀兵衛が書いたようです。
10代目もイギリス留学で醸造技術を習得し醤油王と呼ばれるまでに現在のヤマサ醤油の近代化を進めた人物です。

この石碑が建てられている場所から銚子港の方を見下ろすことができます。
街並みとその先に港が見えます。ここは利根川が海に注ぎこむ河口です。
松陰が訪れた時にはどんな様子だったのでしょうか。
銚子で水揚げされた魚は利根川を経由して江戸の市場に運ばれていました。
夜に出た魚は翌朝に布佐から陸路を松戸まで運び(なま街道)、江戸川を下って次の朝には江戸の市場に並べられました。1日半くらいの工程です。
当時はこの港もかなり活気を帯びていたと思います。
しかし松陰には外敵を考えていない庶民たちを見て、この国が心配になったのでしょう。

川口神社拝殿。

<関連記事>
・川口神社(1):2013.10.7
・川口神社(2):2013.10.8
・稲むらの火:2011.3.27
・石岡の醤油産業は何故廃れたのか?(6):2010..10.17
・なま(鮮魚)街道:2011.1.28
その銚子港の外れの山側に「川口神社」があります。
前に紹介した時(こちら1、こちら2)に、この神社は安倍晴明伝説が伝わる神社として紹介しました。
ここに吉田松陰の石碑が置かれているので見てきました。
(前来た時はあまり興味もなくゆっくり見なかったのです)

「松陰先生曽遊之地」の石碑です。
港側から神社まで長いのぼり石段が続きますが、その中間くらいの場所に置かれています。

裏には松陰が東北遊日記に書いた漢詩が彫られています。
この詩はなかなか読むのも難しそうです。
そこでネットを検索していたらこの詩を訳したサイトを発見しました。
(こちら:銚子港 吉田松陰の漢詩(漢詩・詩吟を楽しむ))
これでようやくこの詩も理解することができました。
サイトを作成している方に御礼申し上げます。
肝心の最後の方の一部を転載させていただきます。
何人復有審敵作 何人(なんびと)か復た審敵(しんてき)の作有らん
仄聞身毒与満清 仄(ほのか)に聞く身毒(しんどく)と満清(まんしん)
宴安或被他人掠 宴安(えんあん)すれば或は他人の掠(りゃく)を被(こうむ)らん
杞人有憂豈得已 杞人(きじん)憂あり豈(あ)に已むを得んや
閑却袖中綏邊略 閑却(かんきゃく)袖中(しゅうちゅう)す綏邊(すいへん)の略
強開樽酒発浩歌 強いて樽酒を開いて浩歌(こうか)を発すれば
滄溟如墨天日落 滄溟(そうめい)墨の如く天日(てんじつ)落つ
(解釈)
インドや満州族の清朝(中国)の事をそれとなく聞くが
安逸を貪っていると他国に侵略されるだろう
心配症の者が要らぬ心配するのは已むを得ないのか、否そんな事はない
辺境の敵を防ぐ対策が何もなされていないではないか
無理に樽酒を開けて大声で歌えば
大海原は日が落ちて墨を流した様である
吉田松陰はこの地に来て、このような日本の状態では敵国に侵略されてしまうと大変危惧していたことがわかります。
こんなに無防備では何時侵略されてもおかしくない。すでに他国のうわさも聞いていたようです。

この詩の最後に浜口儀兵衛謹書と彫られている。
現在のヤマサ醤油の代々続いてきた当主が浜口儀兵衛であるが、この松陰がこの地を訪れたのは嘉永5年(1852)1月8日(旧暦)。
この当時は7代目浜口儀兵衛の代で、浜口家の分家から本家に入って家督を相続した人物で、前に「稲むらの火」で紹介したことがある人です。
しかしこの書は10代目の浜口儀兵衛が書いたようです。
10代目もイギリス留学で醸造技術を習得し醤油王と呼ばれるまでに現在のヤマサ醤油の近代化を進めた人物です。

この石碑が建てられている場所から銚子港の方を見下ろすことができます。
街並みとその先に港が見えます。ここは利根川が海に注ぎこむ河口です。
松陰が訪れた時にはどんな様子だったのでしょうか。
銚子で水揚げされた魚は利根川を経由して江戸の市場に運ばれていました。
夜に出た魚は翌朝に布佐から陸路を松戸まで運び(なま街道)、江戸川を下って次の朝には江戸の市場に並べられました。1日半くらいの工程です。
当時はこの港もかなり活気を帯びていたと思います。
しかし松陰には外敵を考えていない庶民たちを見て、この国が心配になったのでしょう。

川口神社拝殿。

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