麻生港と観音様
今日も霞ケ浦の湊「麻生港」とその周辺の紹介です。
麻生港にはコンクリで囲まれた船溜り(たまり)があります。
何艘かの釣り舟が停留されています。
ここ麻生では玉造とともに「観光帆引き船」が運行されるようです。
9月から12月初めまでの土日のみの運行とか・・・
(昨年の案内は→こちら)
このワカサギ漁も漁獲量がだいぶ減り、平成18年からワカサギ資源回復計画が始まり大分増えてきているといいます。
でも昭和40年頃は霞ケ浦でワカサギの漁獲量は年に2500トンもあったそうです。
今は1/10~1/20くらいでしょうか。

少し近くを散策して見ました。 すると神社がありました。


新川観音:医王山蓮城院の別院であるこの最勝院は、享保2年(1717)に創建、始め新川の河口に建立されたので「新川の観音様」の名称がある。安永8年(1779)に類焼したが、ただちに再建された。昭和4年の麻生港船溜り掘削によって現在地に移転された。航行安全、子授け、育児に霊験あらたかをもって知られ、1月10日の取子安全大護摩修業は現在でも多数の参詣者で賑わっている。(現地看板より)

お堂の中には真中の厨子には多分新川千手観音が納められているようです。
左右にはたくさんの観音さんが納められています。
百観音信仰などのものでしょうか?

神社の裏手には「熊野権現」が祀られていました。
少し霞ケ浦の漁業の歴史を見て見たいと思います。
大昔は別にして江戸時代になる頃には霞ケ浦に48津といわれる数の湊(津)がありました。
北浦にも44津があり、それぞれ組合のような組織ができ共同運営がされていました。
しかし江戸時代になり水戸藩がこの漁場を何とか自分たちの利にしたいと考えたのが御留川(おとめがわ)制度です。
この麻生と向こう岸の浮島辺りも御留川にしようとも考えたようです。
実際に御留川と制定されたのは高浜入りの狭くなった入り口部分の玉里と井関の間です(1625年)。
両岸を水戸藩が支配し、その間の湖も川と同じようにみなしてここで採れる魚介類jはすべて水戸藩に運ばれました。
この制度には他の霞ケ浦の漁師たちは反対したようです。
そして漁獲量や漁業期間の協定を結んで霞ケ浦の資源確保を図っていたといいます。
しかし、それも大徳網など発達で大きな網元が非常に大きな力を持って漁師たちを束ねて使うようになってきたようです。
この麻生と浮島の間はあまりにも広くて離れていますので御留川とするには影響も大きく無理もあったのでしょう。
こちらには御留川とはならなかったようですが、北浦の方は大分具体化された時期もあったようです。
きっとこのあたりにも大きな網元がいたのでしょうね。
玉里の御留川が発達したので水戸藩の江戸までの水運ルートも小川の方から運んだルートも発達したものと思います。
そうでなければ涸沼から鉾田経由で北浦を通って霞ケ浦~利根川の方が近いです。
まあ色々なことを考えて見ないといけませんね。
麻生港にはコンクリで囲まれた船溜り(たまり)があります。
何艘かの釣り舟が停留されています。
ここ麻生では玉造とともに「観光帆引き船」が運行されるようです。
9月から12月初めまでの土日のみの運行とか・・・
(昨年の案内は→こちら)
このワカサギ漁も漁獲量がだいぶ減り、平成18年からワカサギ資源回復計画が始まり大分増えてきているといいます。
でも昭和40年頃は霞ケ浦でワカサギの漁獲量は年に2500トンもあったそうです。
今は1/10~1/20くらいでしょうか。

少し近くを散策して見ました。 すると神社がありました。


新川観音:医王山蓮城院の別院であるこの最勝院は、享保2年(1717)に創建、始め新川の河口に建立されたので「新川の観音様」の名称がある。安永8年(1779)に類焼したが、ただちに再建された。昭和4年の麻生港船溜り掘削によって現在地に移転された。航行安全、子授け、育児に霊験あらたかをもって知られ、1月10日の取子安全大護摩修業は現在でも多数の参詣者で賑わっている。(現地看板より)

お堂の中には真中の厨子には多分新川千手観音が納められているようです。
左右にはたくさんの観音さんが納められています。
百観音信仰などのものでしょうか?

神社の裏手には「熊野権現」が祀られていました。
少し霞ケ浦の漁業の歴史を見て見たいと思います。
大昔は別にして江戸時代になる頃には霞ケ浦に48津といわれる数の湊(津)がありました。
北浦にも44津があり、それぞれ組合のような組織ができ共同運営がされていました。
しかし江戸時代になり水戸藩がこの漁場を何とか自分たちの利にしたいと考えたのが御留川(おとめがわ)制度です。
この麻生と向こう岸の浮島辺りも御留川にしようとも考えたようです。
実際に御留川と制定されたのは高浜入りの狭くなった入り口部分の玉里と井関の間です(1625年)。
両岸を水戸藩が支配し、その間の湖も川と同じようにみなしてここで採れる魚介類jはすべて水戸藩に運ばれました。
この制度には他の霞ケ浦の漁師たちは反対したようです。
そして漁獲量や漁業期間の協定を結んで霞ケ浦の資源確保を図っていたといいます。
しかし、それも大徳網など発達で大きな網元が非常に大きな力を持って漁師たちを束ねて使うようになってきたようです。
この麻生と浮島の間はあまりにも広くて離れていますので御留川とするには影響も大きく無理もあったのでしょう。
こちらには御留川とはならなかったようですが、北浦の方は大分具体化された時期もあったようです。
きっとこのあたりにも大きな網元がいたのでしょうね。
玉里の御留川が発達したので水戸藩の江戸までの水運ルートも小川の方から運んだルートも発達したものと思います。
そうでなければ涸沼から鉾田経由で北浦を通って霞ケ浦~利根川の方が近いです。
まあ色々なことを考えて見ないといけませんね。
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