マダラ鬼神祭(4)
私がマダラ神(摩多羅神)のことを知ったのは、2年前に島根県安来の清水寺常行堂に秘仏として納められていた摩多羅神座像が公開された時だった。
それがリンク先のブログ記事で知った。
そして公開された摩多羅神座像は無断で写真を転載できないので朝日新聞デジタルの写真を参照してほしい(こちら)
そしてこの少し薄笑いを浮かべたような不思議な像は秘仏としてどこもが公開していないという。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。
この摩多羅神に興味をもったので次のような本を買った。

この本の表紙に不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
これは丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」の二童子だとされ、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに、
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
さて、桜川市雨引観音のマダラ鬼神祭では、日本で2か所だけの鬼祭りだと聞いた。
しかし、このブログへの投稿で国東半島にも鬼の祭りはあるというので、正確には摩多羅神の祭りとして鬼に関する祭りとしては日本で2か所だけだということなのかも知れない。
もう一か所は京都太秦(うずまさ)にある広隆寺だという。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
この半跏思惟像は言わずとも良く知れた素晴らしい仏像でもっとも古いものの一つとされている。
この広隆寺で10月12日に不定期で行なわれている「牛祭り」がこの摩多羅神のまつりで、正式には広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして行なわれてきたそうだ。

(出典:日文研データベース http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/gyouji/gyouji_86.html)
この上の写真はお借りしたもので実際の祭りは夜行なわれておりあまり写真もない。
しかし牛祭りの名前のごとく摩多羅神は馬ではなく牛に乗って表れる。
祭りの起源も平安時代に遡るようなので牛が移動手段に使われていた時代である。
そして自らは鬼の面ではなく摩多羅神の面(紙)をかぶり鬼を従えている。
この摩多羅神は変わった祭文(国家安穏・五穀豊穣・悪病退散)を独特の調子で述べ、参拝者はそれに向かって野次を飛ばす。
読み終わると摩多羅神は四天王とともに薬師堂内に逃げ込むが、群集が追いかけてその面を取り上げるという。
面を取りあげることで厄祓いがなされると解釈されたという。(現在も行なわれているかは不明)
1790年にこの牛祭りを描いた絵がある。

『都名所図会』(1790年)より「太秦牛祭図絵」
またYouTubeで探してみると1982年に撮影された貴重なスライドがUPされていた。
最近は牛の調達が困難になり祭りもあまり行われていないようだ。
さて、この広隆寺は京都に都ができる前からあるといわれる古寺で、秦河勝が創建したという。
この秦氏は渡来人集団といわれ、朝鮮半島を経由してインド近くから日本にやってきたといわれる。
また秦の始皇帝の子孫であるとして秦(しん=はた)とよばれた。
当時の中国などとも往来して数々の技術なども日本にもたらした。
特に機織り技術は特筆したもので、各地に「秦」という字のついた地名がたくさん残された。
広隆寺のある太秦(うずまさ)は特にこの河勝が住んだと伝わっている。神奈川県の秦野市なども昔には秦氏が住んだとも伝えられている。
茨城でも前に養蚕・織物を調べていて常陸太田市の長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」ではこの秦氏との関係が気になった(記事→こちら)
さて、このブログも常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)を何箇所か見たが後戸の神である摩多羅神は見たことがなく、その存在もはっきりしない。
一つは行方市西蓮寺の常行堂だが、ここでは毎年9月に常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行こなわれる。
(前に書いた記事を参照 → こちら)
またもう一つは、小美玉市の円妙寺にある常行堂だ(記事は → こちら)
また、いくつかの神社には伊勢神宮などから伝わったとされる神楽が奉納されているところがある。
この中で翁(おきな)の舞いが田楽や申楽と関係が深いと考えています。

(石岡市柿岡八幡宮太々神楽(じゃかもこじゃん)の翁の舞)
例えば、この「じゃかもこじゃん」と呼ばれる祭りには、翁の舞いがありますが、これが宿神(しゅくじん、じゃくじん)などと呼ばれることからこのような呼び名になったものと推論をしています。
また土浦の鷲神社で行われていた祭りも「じゃかもこじゃん」と言われており、これは踊りではなく串に刺したおでんを味噌をつけて食べるんだという
おでんのもとになったのが「でんがく」=田楽であったことに由来するからじゃかもこじゃんは田楽のことを指すのだと考えてよさそうです。
しかし、この祭りも今年から中止(2月)になってしまったそうです。
とても残念です。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
それがリンク先のブログ記事で知った。
そして公開された摩多羅神座像は無断で写真を転載できないので朝日新聞デジタルの写真を参照してほしい(こちら)
そしてこの少し薄笑いを浮かべたような不思議な像は秘仏としてどこもが公開していないという。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。
この摩多羅神に興味をもったので次のような本を買った。

この本の表紙に不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
これは丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」の二童子だとされ、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに、
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
さて、桜川市雨引観音のマダラ鬼神祭では、日本で2か所だけの鬼祭りだと聞いた。
しかし、このブログへの投稿で国東半島にも鬼の祭りはあるというので、正確には摩多羅神の祭りとして鬼に関する祭りとしては日本で2か所だけだということなのかも知れない。
もう一か所は京都太秦(うずまさ)にある広隆寺だという。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
この半跏思惟像は言わずとも良く知れた素晴らしい仏像でもっとも古いものの一つとされている。
この広隆寺で10月12日に不定期で行なわれている「牛祭り」がこの摩多羅神のまつりで、正式には広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして行なわれてきたそうだ。

(出典:日文研データベース http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/gyouji/gyouji_86.html)
この上の写真はお借りしたもので実際の祭りは夜行なわれておりあまり写真もない。
しかし牛祭りの名前のごとく摩多羅神は馬ではなく牛に乗って表れる。
祭りの起源も平安時代に遡るようなので牛が移動手段に使われていた時代である。
そして自らは鬼の面ではなく摩多羅神の面(紙)をかぶり鬼を従えている。
この摩多羅神は変わった祭文(国家安穏・五穀豊穣・悪病退散)を独特の調子で述べ、参拝者はそれに向かって野次を飛ばす。
読み終わると摩多羅神は四天王とともに薬師堂内に逃げ込むが、群集が追いかけてその面を取り上げるという。
面を取りあげることで厄祓いがなされると解釈されたという。(現在も行なわれているかは不明)
1790年にこの牛祭りを描いた絵がある。

『都名所図会』(1790年)より「太秦牛祭図絵」
またYouTubeで探してみると1982年に撮影された貴重なスライドがUPされていた。
最近は牛の調達が困難になり祭りもあまり行われていないようだ。
さて、この広隆寺は京都に都ができる前からあるといわれる古寺で、秦河勝が創建したという。
この秦氏は渡来人集団といわれ、朝鮮半島を経由してインド近くから日本にやってきたといわれる。
また秦の始皇帝の子孫であるとして秦(しん=はた)とよばれた。
当時の中国などとも往来して数々の技術なども日本にもたらした。
特に機織り技術は特筆したもので、各地に「秦」という字のついた地名がたくさん残された。
広隆寺のある太秦(うずまさ)は特にこの河勝が住んだと伝わっている。神奈川県の秦野市なども昔には秦氏が住んだとも伝えられている。
茨城でも前に養蚕・織物を調べていて常陸太田市の長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」ではこの秦氏との関係が気になった(記事→こちら)
さて、このブログも常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)を何箇所か見たが後戸の神である摩多羅神は見たことがなく、その存在もはっきりしない。
一つは行方市西蓮寺の常行堂だが、ここでは毎年9月に常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行こなわれる。
(前に書いた記事を参照 → こちら)
またもう一つは、小美玉市の円妙寺にある常行堂だ(記事は → こちら)
また、いくつかの神社には伊勢神宮などから伝わったとされる神楽が奉納されているところがある。
この中で翁(おきな)の舞いが田楽や申楽と関係が深いと考えています。

(石岡市柿岡八幡宮太々神楽(じゃかもこじゃん)の翁の舞)
例えば、この「じゃかもこじゃん」と呼ばれる祭りには、翁の舞いがありますが、これが宿神(しゅくじん、じゃくじん)などと呼ばれることからこのような呼び名になったものと推論をしています。
また土浦の鷲神社で行われていた祭りも「じゃかもこじゃん」と言われており、これは踊りではなく串に刺したおでんを味噌をつけて食べるんだという
おでんのもとになったのが「でんがく」=田楽であったことに由来するからじゃかもこじゃんは田楽のことを指すのだと考えてよさそうです。
しかし、この祭りも今年から中止(2月)になってしまったそうです。
とても残念です。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
東大和で活躍されているようですね。
> 次から次へと興味が湧く記事で、敬服です。歴史と民俗が融合していて、学ばされます。
これがなかなか苦労をしております。
一つ調べるといろいろ知りたいことが出てきて、書きたいことが増えてきてまとまりません。
時間もないので、記事も中途半端になりがちです。
でも時間をかけてもそれ程進歩しそうにないので適当にUPしています。
今までの経験でUPしておけばそのうちにまた新しいことに気がつくこともあり嬉しいものです。
こうして読んでいただけることが一番ですね。
コメント本当にありがとうございました。