fc2ブログ

石岡の路地(2)

 石岡駅の正面通りは通称八間道路と呼ぶ比較的広い道路である。
この通りは昭和4年2月に石岡市内で起こった大火の後、同じ年の秋に昭和天皇が陸軍演習に来られた時に合わせてできた通りで御幸通りと名称がついている。

この大火はかなり大きな大火災で、当時の石岡は商都としての意地もあり急ピッチで復興も行なわれた。
まあ、それでも当然焼け跡はまだ残っていて天皇陛下が通る道筋の目立つところは全て布で覆ったりして見た目を取りつくろったようだ。
石岡を訪れたのはこの火事の見舞いもあったのだろうからあまりとりつくろわなくてもとも思うが、それが当時の人達の意地でもあったと思う。

さて、路地の記事の2回目だが、この御幸通りの一つ東京側に平行して走る通りがある。通称金丸通りという。
この通りも昔はにぎわったが今はどうしても地元の人以外は通る人も少ない。
お店なども並ぶのだが地元で愛されるお店や問屋として成り立っているお店などもあるが歯が抜けたように空き地も目立つ。

この通りに沿ったところに「鈴の宮神社」がある。

P5050004s.jpg

この鈴の宮の名前の由来は国府であった常陸府中(石岡)には当然駅家(うまや)が置かれていた。
都(奈良、京都)との間で馬で色々なものが運ばれたり伝令も定期的に行なわれていた。
この駅家で使われた時の合図の鈴をこの神社に祀ったことが始まりだと伝えられている。

この神社の隣りの駐車場となっている空地の辺りは、江戸時代には新地八軒と呼ばれ、8軒の遊郭などの家があった。
天狗党の中心となった藤田小四郎(藤田東湖の四男)達はこの遊郭に寝泊まりして同士の結集を図り、尊皇攘夷思想を論じていた。

そして仲間とこの鈴の宮に集結して戦勝を祈願して筑波山に登り天狗党の旗揚げをした。
この鈴の宮に集結したのは江戸から山田一郎など10人ほど、潮来から岩谷敬一郎など17・8人、小川からは竹内百太郎など10人ほど、水戸からは小四郎など20人ほどで総勢60人ほどになったという。

遊郭(旅宿)の一つ紀州屋が小四郎の定宿で、ここの女将「いく」は天狗党に「おふくろ」と慕われていた。
「いく」の墓は市内の本浄寺にあるという。(前に探したがわからなかった)

新地八軒の名前は紀州屋、三好屋、井関屋、山本、大和屋、金升屋、近江屋、松屋だという。
このような狭い空間に軒を連ねていたのだろう。

P5050005s.jpg

この鈴の宮神社の脇から駅前通り(御幸通り)に続く狭い路地がある。

P5050006s.jpg


写真のように狭い道で自転車でもやっと通れるくらいだ。

昔の新地八軒と言うのも通りを挟んで4軒づつ並んでいたようなので、もしかしたらこの路地が昔の遊郭の間の通りだったのかもしれない。

まあそんなことを思ってここを通る人も今ではほとんどいないだろう。

P5050007s.jpg

この道が何処に出るかと言うと「川口ミシン商会」という店の脇である。
鈴の宮神社を探してなかなか見つからないという人もいるが、駅前通りを来てこのミシン商会の特徴のあるレトロな建物の脇を入れば神社に出る。


石岡の路地 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/05/08 19:32
コメント
No title
こんばんは!

狭い路地の写真いいですね~
お写真を見ていたら、
小さい頃に友達と狭い道を走って遊んだことを思い出しました

川口ミシン商会、店頭にあるスーパーカブ☆
道から出たら昭和に戻ったような錯覚になります!
かるがも@さん
今晩は。

> 狭い路地の写真いいですね~

そうでしょ。誰もがどこか懐かしさを覚えたりしますね。
それぞれ育ったところは違っても何か懐かしい思い出がありそうです。

> 川口ミシン商会、店頭にあるスーパーカブ☆
> 道から出たら昭和に戻ったような錯覚になります!

石岡は昭和レトロの詰まった町かもしれません。
この近くで映画3丁目の夕日の撮影もありました。

管理者のみに表示