石岡の路地(6)
まだ5月というのに暑くなり少しやる気が失せています。
こんな調子でこれからの夏が乗り切れるのか心配ですが、まああせらずにやっていきましょう。
昨日の町歩きの続きです。
スーパータイヨーの前の通りは坂になっていて恋瀬川の低地に下っていきますが、この通りも古くからあります。
宮下通りと言います。
宮は総社宮のことでこの下ったところから総社宮に登る入口(昔はこちらが正)があります。
今ではこちらの階段から総社宮拝殿前まで登る人はあまりおりませんね。
今はここは無視して斜めに西に一方通行を逆に歩きます。

この一方通行を逆に登ると中町の中心に出ます。
それにしてもこの薬屋さんの目立つ看板は町の景観にマッチしていません。
景観法の制定がもたもたしているうちに建ってしまいました。

江戸時代に染物屋をしていたという丁子屋は昭和4年の石岡の大火では唯一焼け残った江戸時代の建物で、今は町の観光用に使われています。
しかしこの建物も東日本大震災により屋根や壁に被害が出て修理しました。
そのため江戸時代の香りがだいぶ薄くなってしまいました。
上の写真の右手前が丁子屋(まち蔵藍)です。
正面ののドラッグストアのところには昔コーキという百貨店がありましたがこれも今は無くなりました。
(コーキは老舗の百貨店で昔は高喜という呉服店でした)

こちらは丁子屋さんの裏手のお屋敷です。
写真を撮っている空地は昔コーキの駐車場であった場所です。

この国道355号線の旧道は江戸時代の水戸街道(陸前浜街道)でした。
今ではこの昭和5年頃にできた看板建築もだいぶ浸透してきたようです。
この通りの辺りは中町ですが、ここから少し土浦寄りはこの街道を挟んで駅側を守横町、反駅側を守木町といいます。
守木という名前は昔は多分「森木」でここの金刀比羅神社あたりを呼んだ地名で、ここに住んだ森木氏から名前がついたものでしょう。
そしてその横の町なので守横町となったようです。
もう少し調べると、守木横町を略した呼び名ですが、守木横丁がこの名前になっとか。
江戸の初期には馬之地上町と呼ばれたようです。
この守横町のNTTの建物の前の信号から駅方向に入る道に進みます。
信号には「守横新道入口」となっていますので、守横新道と呼ぶようです。
道は少し狭いので駅方面からの一方通行です。

少し進むと左手に古くからやっている老舗の蕎麦屋「丸三そば」があります。
店の中に入ると数十年前のメニュー表が大きく張り出されています。
今の値段の10分の1位ですので間違って注文する人もいないでしょう。
なかなか美味しいです。
真壁に同じ名前のお店があるので聞いてみたところやはりこのお店から分かれたお店だといいます。
右側に将棋連盟の建屋があります。比較的最近引っ越してきたのでしょうか。

そして次の金丸寿通りの交差点角に蔦で覆われたお店があります。
「河内屋」さんです。多くの方がこのお店はもう営業されていないと云うように思われているようです。
確かに昼間来るとお店は閉まっているようにも見えます。

でもちゃんと夜には明かりがともります。
この時期は蔦も緑でお花もあり綺麗になっています。
昔なら一杯やりにすぐにでも入って見るのですが、最近は一人で飲むこともほとんどなくなりました。
でも少し気になるお店ですよね。
そのうちにリポートしたいですね。
こんな調子でこれからの夏が乗り切れるのか心配ですが、まああせらずにやっていきましょう。
昨日の町歩きの続きです。
スーパータイヨーの前の通りは坂になっていて恋瀬川の低地に下っていきますが、この通りも古くからあります。
宮下通りと言います。
宮は総社宮のことでこの下ったところから総社宮に登る入口(昔はこちらが正)があります。
今ではこちらの階段から総社宮拝殿前まで登る人はあまりおりませんね。
今はここは無視して斜めに西に一方通行を逆に歩きます。

この一方通行を逆に登ると中町の中心に出ます。
それにしてもこの薬屋さんの目立つ看板は町の景観にマッチしていません。
景観法の制定がもたもたしているうちに建ってしまいました。

江戸時代に染物屋をしていたという丁子屋は昭和4年の石岡の大火では唯一焼け残った江戸時代の建物で、今は町の観光用に使われています。
しかしこの建物も東日本大震災により屋根や壁に被害が出て修理しました。
そのため江戸時代の香りがだいぶ薄くなってしまいました。
上の写真の右手前が丁子屋(まち蔵藍)です。
正面ののドラッグストアのところには昔コーキという百貨店がありましたがこれも今は無くなりました。
(コーキは老舗の百貨店で昔は高喜という呉服店でした)

こちらは丁子屋さんの裏手のお屋敷です。
写真を撮っている空地は昔コーキの駐車場であった場所です。

この国道355号線の旧道は江戸時代の水戸街道(陸前浜街道)でした。
今ではこの昭和5年頃にできた看板建築もだいぶ浸透してきたようです。
この通りの辺りは中町ですが、ここから少し土浦寄りはこの街道を挟んで駅側を守横町、反駅側を守木町といいます。
守木という名前は昔は多分「森木」でここの金刀比羅神社あたりを呼んだ地名で、ここに住んだ森木氏から名前がついたものでしょう。
そしてその横の町なので守横町となったようです。
もう少し調べると、守木横町を略した呼び名ですが、守木横丁がこの名前になっとか。
江戸の初期には馬之地上町と呼ばれたようです。
この守横町のNTTの建物の前の信号から駅方向に入る道に進みます。
信号には「守横新道入口」となっていますので、守横新道と呼ぶようです。
道は少し狭いので駅方面からの一方通行です。

少し進むと左手に古くからやっている老舗の蕎麦屋「丸三そば」があります。
店の中に入ると数十年前のメニュー表が大きく張り出されています。
今の値段の10分の1位ですので間違って注文する人もいないでしょう。
なかなか美味しいです。
真壁に同じ名前のお店があるので聞いてみたところやはりこのお店から分かれたお店だといいます。
右側に将棋連盟の建屋があります。比較的最近引っ越してきたのでしょうか。

そして次の金丸寿通りの交差点角に蔦で覆われたお店があります。
「河内屋」さんです。多くの方がこのお店はもう営業されていないと云うように思われているようです。
確かに昼間来るとお店は閉まっているようにも見えます。

でもちゃんと夜には明かりがともります。
この時期は蔦も緑でお花もあり綺麗になっています。
昔なら一杯やりにすぐにでも入って見るのですが、最近は一人で飲むこともほとんどなくなりました。
でも少し気になるお店ですよね。
そのうちにリポートしたいですね。
またまた懐かしい画像です。
実は、私、老舗高喜に15年ほど前まで勤務しておりました。(今は独立してます)
丸三そば屋さんはもちろん、河内屋さんは相当な数飲みましたね。おばあちゃんが仕切っていて、息子さんが料理を作ってました。その妹さんがもう50過ぎだと思いますが、元日準ミスでテレビなどにレポーターで出演してました。
今は河内屋さんですが角はスナック喫茶「一茶」でランチはそこで食べましたね。
ご存知かと思いますが、カスミストアは金丸町(河内屋から北に高喜の裏通り)が霞ストアとしての第一号店だったらしいです。
このあたりは私より良くご存じのようですね。
ここ10年ほどしか知りませんので昔の話をうかがえてうれしいです。
カスミの話は知りませんでした。
情報感謝します。
こんど河内屋さんは一度行ってみたいと思います。
また丸三そばは時々伺うこともありそうですのでそのうちリポートします。