潮来から息栖(1)-普門院
石岡の路地歩きの記事を半月前から14回ほど書いてきました。
この路地歩きもまた少ししたら続きを書きたいと思います。
しかし、その前に書いていた潮来周辺の記事も途中でしたのでこちらも少し書き足しておきたいと思います。
潮来から鹿島に向かうには国道51号線で延方(のぶかた)を通過して北浦に架かる大橋(神宮橋または新神宮橋)を渡っていきます。
もちろん延方も潮来市ですが潮来というと水郷のイメージが強いので、それとは少し違ったイメージも紹介したいとタイトルを「潮来と延方」としてきましたが、この先の息栖方面との繋がりを別なカテゴリとしてまとめてみたいと思います。
まず最初は、神宮橋のすぐ手前の洲崎の交差点手前を左側に入ったあたりに「普門院」というお寺です。
ここを訪れたのはもう1カ月以上前になりました。
桜の花の散った頃ですが、潮来の鎌倉幕府とのつながりが強い象徴である「長勝寺」の立派な入口の山門(楼門)はこの普門院の門を移築したものだと聞いていたので一度行ってみたいと思っていたものです。

寺の裏側に駐車場があったのでそちらに車を止めて寺の裏側から入りました。
こちらは寺の住職のいる住まいのようでかなりきれいにされています。

庭を通って本堂(地蔵堂?)のある方に行ってみました。
このお堂は地蔵尊を祀っているので地蔵堂だそうです。

とても驚くほど立派なお堂ですが、現在このお堂に鉄骨で覆って屋根をかぶせ、風雨から守るようにしています。
写真を撮らせていただいていると、近くを掃いていた小坊主さんがおりましたので内部の写真を撮らせていただいても良いか伺いました。

住職に聞いてきますと母屋の方に行きしばらくして戻ってきました。
「現在痛みがひどくて、まだ彩色も残っているうちに何とか修理をしたいと浄財を集めていますが、このような状態では写真もできれば遠慮してほしいと申しております」とのこと。

まあそうは言われてもこれだけの歴史的な構造物に彫刻の立派なものを紹介しないわけにもいきません。
外から少しだけということで写真を撮らせていただきました。
少しと言いながらかなり多くなってしまいました。立派なものですのでお許しください。

この地蔵堂は徳川光圀が潮来村から延方村に移したものだそうです。
建築年代は天和3年(1683)で、市の紹介記事によると「来迎柱の裏面に朱書きで遊女たち70名の名前が書かれている」とあります。

350年ほど前に建てられたものですのでやはり修理も必要でしょう。
何とか早く修繕して立派な姿をよみがえらせてほしいものです。

よく見ると確かに痛みも目立ちますし、ところどころ欠けてしまったところも目につきます。
いまはまだ色彩も残っており、修理も可能な状態ですので文化財的な観点からも是非昔の姿がよみがえればよいと願っています。

さて、この寺は舟に乗った地蔵(船越地蔵)を本尊としています。

本尊の船越地蔵菩薩はこの奥の厨子?の中に安置されていて、通常は身代わり地蔵を公開しているようです。
言い伝えによると鎌倉時代の建長4年(1252)9月15日に高僧「忍性」が鹿島神社に詣で、7日の間衆生済度を物語ったところ「鹿島社の神木の南枝で地蔵を刻み、この洲崎普門院に安置すれば、五穀豊穣、国家安泰となるであろうとの神託を受け、忍性が地蔵菩薩像を三体作成し、普門院、普渡寺(大船津)、菩薩寺にそれぞれ安置したという。
現在この普門院の地蔵尊は舟に乗った姿の地蔵で、欅の木の一本造りで丈は三尺三寸だという。
(ただしかなり傷みも激しいとのこと)



現在の寺の山門(入口)は北浦の方を向いている。
この路地歩きもまた少ししたら続きを書きたいと思います。
しかし、その前に書いていた潮来周辺の記事も途中でしたのでこちらも少し書き足しておきたいと思います。
潮来から鹿島に向かうには国道51号線で延方(のぶかた)を通過して北浦に架かる大橋(神宮橋または新神宮橋)を渡っていきます。
もちろん延方も潮来市ですが潮来というと水郷のイメージが強いので、それとは少し違ったイメージも紹介したいとタイトルを「潮来と延方」としてきましたが、この先の息栖方面との繋がりを別なカテゴリとしてまとめてみたいと思います。
まず最初は、神宮橋のすぐ手前の洲崎の交差点手前を左側に入ったあたりに「普門院」というお寺です。
ここを訪れたのはもう1カ月以上前になりました。
桜の花の散った頃ですが、潮来の鎌倉幕府とのつながりが強い象徴である「長勝寺」の立派な入口の山門(楼門)はこの普門院の門を移築したものだと聞いていたので一度行ってみたいと思っていたものです。

寺の裏側に駐車場があったのでそちらに車を止めて寺の裏側から入りました。
こちらは寺の住職のいる住まいのようでかなりきれいにされています。

庭を通って本堂(地蔵堂?)のある方に行ってみました。
このお堂は地蔵尊を祀っているので地蔵堂だそうです。

とても驚くほど立派なお堂ですが、現在このお堂に鉄骨で覆って屋根をかぶせ、風雨から守るようにしています。
写真を撮らせていただいていると、近くを掃いていた小坊主さんがおりましたので内部の写真を撮らせていただいても良いか伺いました。

住職に聞いてきますと母屋の方に行きしばらくして戻ってきました。
「現在痛みがひどくて、まだ彩色も残っているうちに何とか修理をしたいと浄財を集めていますが、このような状態では写真もできれば遠慮してほしいと申しております」とのこと。

まあそうは言われてもこれだけの歴史的な構造物に彫刻の立派なものを紹介しないわけにもいきません。
外から少しだけということで写真を撮らせていただきました。
少しと言いながらかなり多くなってしまいました。立派なものですのでお許しください。

この地蔵堂は徳川光圀が潮来村から延方村に移したものだそうです。
建築年代は天和3年(1683)で、市の紹介記事によると「来迎柱の裏面に朱書きで遊女たち70名の名前が書かれている」とあります。

350年ほど前に建てられたものですのでやはり修理も必要でしょう。
何とか早く修繕して立派な姿をよみがえらせてほしいものです。

よく見ると確かに痛みも目立ちますし、ところどころ欠けてしまったところも目につきます。
いまはまだ色彩も残っており、修理も可能な状態ですので文化財的な観点からも是非昔の姿がよみがえればよいと願っています。

さて、この寺は舟に乗った地蔵(船越地蔵)を本尊としています。

本尊の船越地蔵菩薩はこの奥の厨子?の中に安置されていて、通常は身代わり地蔵を公開しているようです。
言い伝えによると鎌倉時代の建長4年(1252)9月15日に高僧「忍性」が鹿島神社に詣で、7日の間衆生済度を物語ったところ「鹿島社の神木の南枝で地蔵を刻み、この洲崎普門院に安置すれば、五穀豊穣、国家安泰となるであろうとの神託を受け、忍性が地蔵菩薩像を三体作成し、普門院、普渡寺(大船津)、菩薩寺にそれぞれ安置したという。
現在この普門院の地蔵尊は舟に乗った姿の地蔵で、欅の木の一本造りで丈は三尺三寸だという。
(ただしかなり傷みも激しいとのこと)



現在の寺の山門(入口)は北浦の方を向いている。
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