潮来から息栖(2) - 鰐川
潮来の水郷というのは江戸時代に家康がそれまで江戸が湿地帯で水害も多く発生していたことから現在の東京湾に注ぎこんでいた利根川の流れを銚子の方の川につなぎ直すという大改革(利根川の東遷)を行なったことに端を発します。
この東遷事業は1594年から1654年までの徳川三代将軍家光の死後までかかるが、これにより利根川上流からの土砂によりこの潮来付近には三角州ができ、そこを開拓して大きな耕作地が造られた。
潮来水郷観光の十二橋巡りなどというのもこの加藤洲といわれる開拓地の水路の両側の家々を行き来するために掛けられた十二の橋が続いている水路を巡るものだ。
昔はサッパ舟が生活の一部となっていた風情を楽しむものだ。
さて、この加藤洲ができたときに利根川と常陸利根川との間に北浦からこの常陸利根川に流れ込む流れのために三角洲が形成されないで大きな湖の形が残った。
これが外浪逆浦(そとなさかうら)という。
この名前もなんとなくイメージとしてその湖の状態をよく表しているように思う。
普段は北浦から常陸利根川に水は流れ込むが、大雨の後などは利根川が増水して北浦に逆流する。
また昔は海水も流れ込んだ。
今日のブログのテーマはこの北浦と外浪逆浦をつなぐ川についてである。
川の名前を「鰐川」(わにがわ)という。
何故鰐川という名前なのだろう。
こんなことを考えていたらこの記事を書くのが1カ月も遅くなってしまった。

上の写真は鰐川に架かる国道50号の鰐川橋。右手が潮来で左手は神栖方面である。
この鰐川に鰐が棲んでいたという伝説が残っている。
昨日紹介した「普門院」に伝わる話である。
普門院は北浦の先端、この鰐川の入口の位置にある。
そして、筑波山手前の宝篋山麓にあった極楽寺にやってきて常陸での布教活動をした高僧「忍性」が鹿島神宮の御神木の枝で彫ったという舟に乗った地蔵尊(船越地蔵)を本尊としている。
潮来市の広報「いたこ」2010年5月号の記事から紹介します。
「この地蔵が普門院船越地蔵として尊ばれたのは、この入り海の普門院前の水路は、潮の流れが速く、常に渦を巻く荒川であり、太平洋の海が逆流するため、いつしか鰐(わに)がすんで渡し船を覆し人々を取り喰う被害が絶えなかった。そこで近村の人々は、鹿島社に詣でお祈りをした。次の日、一人の僧が川辺に佇み、水上に向かい読経を始めた。すると水面にわかに逆巻が立ち、風を起こし、丈余(約3m)の鰐の群れが出現し、回りながら太平洋に流れ去ったという。
その後この僧は普門院の地蔵堂へ忽然とその姿が消えた。その後、渡船の事故もなく、五穀豊穣、人々は忍性作の船越地蔵を尊んだという。

さて、この話をそのまま解釈してもしょうがない。その当時に日本の川や海に鰐がいたなどという記録は無い。
そうすると思いだすのは「稲羽の素兎」(因幡の白兎)の話だ。
子供の頃に歌も習った。大黒様(大国主)の話で出雲の話として出てくる。
♪♪ 大きな袋を 肩にかけ
大黒様が 来かかると
ここに因幡の 白うさぎ
皮をむかれて 赤裸 ♪♪

この歌も古事記などに出てくる神話が出典なのだが、
神話の「国譲り」では今の日本や大和政権が統一する前に出雲に「国」がまずあったことの説明として話が造られたと考えられそうだ。
隠岐の島から本土に渡る手段がなかったウサギは鰐を集め、言葉巧みにだまして鰐を島から本土まで並べさせ、数を数えるふりをして鰐の背中を飛び跳ねながら本土まで渡ります。
そしてウサギは渡り終えるとだましていたことをうっかり鰐にしゃべってしまい、怒った鰐によって皮をはがされてしまいます。
そして痛がって泣いているこの兎を八百神がうそを教え、兎は更に苦しみます。
最後にやってきた大黒様(大国主)がこの白兎を助けてやるわけですが、この話は、この国が最初はこの出雲の神(大国主)が持っていたことの説明として使われていると解釈するとスッキリします。
しかし、鰐は当時の日本にも恐らくいないであろうから一般には鰐(ワニ)ではなく「鮫」(サメ)のことだという説がかなり定説のようになっています。
まあ鮫でもワニでもどちらでもいいようですが、大昔に波の荒れた海を見ているとまだ見たことのない鰐がたくさん泳いでいるように感じたのかもしれません。
江戸時代になると波乗り兎の文様が流行りますが、月が海面に写ると、月に住む兎が波間を飛び跳ねているように見えたのでしょう。
すると、鰐は荒れ狂う波のことなのかもしれません。

上の写真は鰐川の上流側(北浦方面)を見た所。
地図ではそれ程の川ではないと思うが、実際に見てみるとかなり広い。
昔は海からの流れと、北浦からの流れが渦巻いていたのかも知れない。
今では利根川とは水門があって逆流もしない。
もちろん海水は流れて来ない。逆流はしないのだ。
洪水や水田にとっては水門の逆流は好ましくなかったのだがじれでは霞ケ浦全体の水質は悪くなるばかりである。
窒息しないうちに、時々吸ったり吐いたり息をさせてほしい。
この東遷事業は1594年から1654年までの徳川三代将軍家光の死後までかかるが、これにより利根川上流からの土砂によりこの潮来付近には三角州ができ、そこを開拓して大きな耕作地が造られた。
潮来水郷観光の十二橋巡りなどというのもこの加藤洲といわれる開拓地の水路の両側の家々を行き来するために掛けられた十二の橋が続いている水路を巡るものだ。
昔はサッパ舟が生活の一部となっていた風情を楽しむものだ。
さて、この加藤洲ができたときに利根川と常陸利根川との間に北浦からこの常陸利根川に流れ込む流れのために三角洲が形成されないで大きな湖の形が残った。
これが外浪逆浦(そとなさかうら)という。
この名前もなんとなくイメージとしてその湖の状態をよく表しているように思う。
普段は北浦から常陸利根川に水は流れ込むが、大雨の後などは利根川が増水して北浦に逆流する。
また昔は海水も流れ込んだ。
今日のブログのテーマはこの北浦と外浪逆浦をつなぐ川についてである。
川の名前を「鰐川」(わにがわ)という。
何故鰐川という名前なのだろう。
こんなことを考えていたらこの記事を書くのが1カ月も遅くなってしまった。

上の写真は鰐川に架かる国道50号の鰐川橋。右手が潮来で左手は神栖方面である。
この鰐川に鰐が棲んでいたという伝説が残っている。
昨日紹介した「普門院」に伝わる話である。
普門院は北浦の先端、この鰐川の入口の位置にある。
そして、筑波山手前の宝篋山麓にあった極楽寺にやってきて常陸での布教活動をした高僧「忍性」が鹿島神宮の御神木の枝で彫ったという舟に乗った地蔵尊(船越地蔵)を本尊としている。
潮来市の広報「いたこ」2010年5月号の記事から紹介します。
「この地蔵が普門院船越地蔵として尊ばれたのは、この入り海の普門院前の水路は、潮の流れが速く、常に渦を巻く荒川であり、太平洋の海が逆流するため、いつしか鰐(わに)がすんで渡し船を覆し人々を取り喰う被害が絶えなかった。そこで近村の人々は、鹿島社に詣でお祈りをした。次の日、一人の僧が川辺に佇み、水上に向かい読経を始めた。すると水面にわかに逆巻が立ち、風を起こし、丈余(約3m)の鰐の群れが出現し、回りながら太平洋に流れ去ったという。
その後この僧は普門院の地蔵堂へ忽然とその姿が消えた。その後、渡船の事故もなく、五穀豊穣、人々は忍性作の船越地蔵を尊んだという。

さて、この話をそのまま解釈してもしょうがない。その当時に日本の川や海に鰐がいたなどという記録は無い。
そうすると思いだすのは「稲羽の素兎」(因幡の白兎)の話だ。
子供の頃に歌も習った。大黒様(大国主)の話で出雲の話として出てくる。
♪♪ 大きな袋を 肩にかけ
大黒様が 来かかると
ここに因幡の 白うさぎ
皮をむかれて 赤裸 ♪♪

この歌も古事記などに出てくる神話が出典なのだが、
神話の「国譲り」では今の日本や大和政権が統一する前に出雲に「国」がまずあったことの説明として話が造られたと考えられそうだ。
隠岐の島から本土に渡る手段がなかったウサギは鰐を集め、言葉巧みにだまして鰐を島から本土まで並べさせ、数を数えるふりをして鰐の背中を飛び跳ねながら本土まで渡ります。
そしてウサギは渡り終えるとだましていたことをうっかり鰐にしゃべってしまい、怒った鰐によって皮をはがされてしまいます。
そして痛がって泣いているこの兎を八百神がうそを教え、兎は更に苦しみます。
最後にやってきた大黒様(大国主)がこの白兎を助けてやるわけですが、この話は、この国が最初はこの出雲の神(大国主)が持っていたことの説明として使われていると解釈するとスッキリします。
しかし、鰐は当時の日本にも恐らくいないであろうから一般には鰐(ワニ)ではなく「鮫」(サメ)のことだという説がかなり定説のようになっています。
まあ鮫でもワニでもどちらでもいいようですが、大昔に波の荒れた海を見ているとまだ見たことのない鰐がたくさん泳いでいるように感じたのかもしれません。
江戸時代になると波乗り兎の文様が流行りますが、月が海面に写ると、月に住む兎が波間を飛び跳ねているように見えたのでしょう。
すると、鰐は荒れ狂う波のことなのかもしれません。

上の写真は鰐川の上流側(北浦方面)を見た所。
地図ではそれ程の川ではないと思うが、実際に見てみるとかなり広い。
昔は海からの流れと、北浦からの流れが渦巻いていたのかも知れない。
今では利根川とは水門があって逆流もしない。
もちろん海水は流れて来ない。逆流はしないのだ。
洪水や水田にとっては水門の逆流は好ましくなかったのだがじれでは霞ケ浦全体の水質は悪くなるばかりである。
窒息しないうちに、時々吸ったり吐いたり息をさせてほしい。
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