潮来から息栖(6)-高浜
息栖神社の入口には忍潮井があり、この場所に船は接岸できないでしょう。
潮来側のここまでに昔、湊となりそうな場所はありませんでした。
するともう少し先なのでしょうか。
現在の息栖大橋辺りも考えられますがもう少し先かもしれません。
潮来から息栖、神栖、銚子への道は鹿島コンビナートができたために、道路はかなり広く良くなっています。
潮来からの道は途中から鹿嶋市方面から来る124号線に合流し、片側2車線の道になります。
起伏もほとんどなくほぼ真っ直ぐ道が続くため道路わきには「ここは高速道路ではありません」などと書かれた看板もあります。
しかしこの124号線は昔の道ではないのでもう一つ川に近いところを県道260号線が平行に走っていました。
息栖大橋への道を横切ってこの260号線を走って見ました。
あまり車も走っていません。
すこし行くと「高浜」という地名の場所に出ました。ここに浜や港があったのでしょうか。
川が蛇行している場所ですので浜があっったようです。
石岡の高浜はかなり古い地名で「国府浜(こうのはま)」が高浜になったのではないかといわれています。
するとこの高浜はどんないわれがあるのでしょうか。
この高浜地区に気になる古いお堂がありました。

観音堂のようですが、内部はわかりません。
また説明されている資料も見つかりませんでした。


この観音堂の裏手に地図では「東漸寺」となっていますが、建物正面は「高浜公民館」と書かれています。
おそらくこの裏にお寺があるのでしょう。
真言宗智山派となっています。
しかし寺の歴史などは書かれた資料が見つからない。
この辺りももうあまり通る車もなく徐々に忘れられて行くのであろうか?

境内の隅に如意輪観音石像が並んで置かれていました。
このあたりは観音信仰が強かったようです。
特に女性の間で十九夜講などが盛んに行なわれていたのではないかと思います。
良く読めないが、真中が延宝3年(1675)?の十九夜講で奉納したもの(同行79人?)、向かって右は寛延2年(1749)?の十九夜講で2度目の奉納(同行30人)?、左は明和9年(1772)の奉納?
皆はっきりとは読めないが江戸時代初期から中期にかけてのものでしょう。
結構古いです。

また少し離れて地蔵石像が半分土に埋まっています。
真中の像は「宝暦3年」(1753)ではないかと思います。
恐らく、如意輪観音像と同じ頃のように思います。

こちらは特別なのでしょうか。子安地蔵が木の屋根と塀に囲まれて置かれています。
年代は読み取れませんでした。

向かって右が「普門品一万巻供養塔」、左が「二十三夜塔」となっています。
普門品(ふもんぼん)は法華経の第25品「観世音菩薩普門品」のことで、観音経を一万回唱えることができた時にこれを奉納したようです。
二十三夜講は多分、男衆の集まりですね。
潮来側のここまでに昔、湊となりそうな場所はありませんでした。
するともう少し先なのでしょうか。
現在の息栖大橋辺りも考えられますがもう少し先かもしれません。
潮来から息栖、神栖、銚子への道は鹿島コンビナートができたために、道路はかなり広く良くなっています。
潮来からの道は途中から鹿嶋市方面から来る124号線に合流し、片側2車線の道になります。
起伏もほとんどなくほぼ真っ直ぐ道が続くため道路わきには「ここは高速道路ではありません」などと書かれた看板もあります。
しかしこの124号線は昔の道ではないのでもう一つ川に近いところを県道260号線が平行に走っていました。
息栖大橋への道を横切ってこの260号線を走って見ました。
あまり車も走っていません。
すこし行くと「高浜」という地名の場所に出ました。ここに浜や港があったのでしょうか。
川が蛇行している場所ですので浜があっったようです。
石岡の高浜はかなり古い地名で「国府浜(こうのはま)」が高浜になったのではないかといわれています。
するとこの高浜はどんないわれがあるのでしょうか。
この高浜地区に気になる古いお堂がありました。

観音堂のようですが、内部はわかりません。
また説明されている資料も見つかりませんでした。


この観音堂の裏手に地図では「東漸寺」となっていますが、建物正面は「高浜公民館」と書かれています。
おそらくこの裏にお寺があるのでしょう。
真言宗智山派となっています。
しかし寺の歴史などは書かれた資料が見つからない。
この辺りももうあまり通る車もなく徐々に忘れられて行くのであろうか?

境内の隅に如意輪観音石像が並んで置かれていました。
このあたりは観音信仰が強かったようです。
特に女性の間で十九夜講などが盛んに行なわれていたのではないかと思います。
良く読めないが、真中が延宝3年(1675)?の十九夜講で奉納したもの(同行79人?)、向かって右は寛延2年(1749)?の十九夜講で2度目の奉納(同行30人)?、左は明和9年(1772)の奉納?
皆はっきりとは読めないが江戸時代初期から中期にかけてのものでしょう。
結構古いです。

また少し離れて地蔵石像が半分土に埋まっています。
真中の像は「宝暦3年」(1753)ではないかと思います。
恐らく、如意輪観音像と同じ頃のように思います。

こちらは特別なのでしょうか。子安地蔵が木の屋根と塀に囲まれて置かれています。
年代は読み取れませんでした。

向かって右が「普門品一万巻供養塔」、左が「二十三夜塔」となっています。
普門品(ふもんぼん)は法華経の第25品「観世音菩薩普門品」のことで、観音経を一万回唱えることができた時にこれを奉納したようです。
二十三夜講は多分、男衆の集まりですね。
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