fc2ブログ

陸平貝塚(3) - 大宮神社

陸平貝塚台地の先端部分に大宮神社という古い神社が建っています。
縄文小屋の所から隣りのゴルフ場との境を奥に進んだところに杉並木の参道が続き、その先に鳥居が建っています。

okataira006.jpg
 
 この陸平台地には昔、城館砦があったと考えられており、この大宮神社は、その中心地にあったものと考えられます。大宮神社の由緒書では、白鳳元年(650)に伊勢にあった社を遷したものであるといいます。

okataira007.jpg

本殿の妻飾り等は、下の説明板にありますが、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作と考えられているそうです。

okataira008.jpg

<現地の案内板より>
大宮神社
 大宮神社は、旧信太庄安中二十四ヶ村の総鎮守で、御祭神は天照皇大神、日本武尊、天太玉命の三柱が祀られています。
 伝承としては白雉元(650)年の創立を伝え、生田長者満盛が氏神として創建し、伊勢大社の分霊を奉斎したこと、その後奈良時代に、その姓名が安中という地名の由来になったとも言われる安倍仲成が、朝廷の勅許を得て正式に勧請し、安中二十四ヶ村の総鎮守になったことなどが伝えられています。
 記録によると、天承二(1575)年と、元禄四(1691)年に社殿の再建が行なわれています。その後、大正九(1920)年の台風により社殿が倒壊したため、翌十年に再建されていますが、現在でも古材を含め再建前の旧状をよく留めているといわれます。現存の本殿は桁行三間、梁間三間の本体に回縁が設けられた規模の大きなもので、村内最大を誇ります。特に本殿の妻飾りは独創的なもので虹梁の唐草分文や頭貫木鼻・組物の拳鼻などの彫刻は、元禄時代特有のものです。このような建築細部の様式から、江戸時代に常陸国を中心に活動し、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作事によると考えられています。
 平成十三年三月
 美浦村教育委員会


 誰もいないひっそりとした境内には、昔からここの生活を見てきたであろう白梅の花が美しく、つつましやかに輝きをはなっていました。

さて、Wikipediaによれば「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つで、氏子などから「大宮」と呼ばれていた神社が、それに「神社」をつけて社名としたものなどである。となっており、全国各地に大きなものも小さなものも数多く存在します。
地元で長く慕われてきたものでしょう。
ところで、この美浦村には黒坂命(くろさかのみこと)の墓と言われる古墳があります(美浦村大塚の弁天塚古墳)。蝦夷征伐のために、大和政権からやってきた黒坂命はこの地を通って石岡を通り、日立の先の十王町にある黒前山のあたりで亡くなったとされますが、生前に気にいっていたこの美浦の地に遺体を運んで埋葬したといわれるものです。
真偽のほどはわかりませんが、この地が気にいっていたというのはわかるような気がします。
この信太(しだ)とよばれる地はこの遺体を運ぶ列の飾りには五彩の旗がひるがえり、その様子から「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後に「垂(しで)の国」から「信太の国」となったといわれています。

 さて、縄文人がこの蝦夷人の祖先とすれば、黒坂命は住居をうばった敵の大将ということですから、考えると複雑な思いですね。陸平のすぐ近くに「牛込」という地名があり、ここから霞ケ浦(昔は海水が来ていた内海)を舟で対岸の「牛渡」辺りに渡っていたとすれば、当時常陸国を平定したといっても、安定した地はまだこの辺りまでだったのかもしれません。

私は学校での歴史という教科はあまり好きではありませんでした。
特に日本史は名前や年号を覚えるのが苦手で、事柄をただ覚えて、それをテストされて苦痛でもありました。
どこか教育が間違っているのではないでしょうか。暗記の苦手なものにはもっと違った面白い事柄を発掘する楽しみを与えてほしかったと今頃になって思うものです。

学者が論文を書こうとすれば、裏付けとなる資料を探し、考察を重ねてまとめなければなりません。一つのことを細かく追及するのでしょう。そしてそれが認められれば「○○説」なるものが大切にされていきます。しかし、文字のない時代は考古学でしかそれを証明したりすることができないのです。
その他に「民俗学」があります。しかし全ての人が学者になるわけではないので、学問はもっと楽しいことを想像したり、考えたりするプロセスが大切なように思います。
子供たちに考えるために必要な引き出しを持つことをたくさん教えてほしいのです。
歴史が政治に利用されるのはどこの国でも同じですが、引き出しを多く持っていれば違った考えも受け入れて自分なりの考えも出来てくると思います。 
 

阿見・美浦・稲敷 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/02/15 18:48
コメント
筑波山が見えた
こんばんわ。
地図上で美浦村信太の楯縫神社から陸平貝塚へ直線を引き大宮神社との位置関係を眺めていたら直線の先の霞ヶ浦湖岸にもう一つ神社があることが判った。
そこで、湖岸の神社の名前を調べようといろいろネット上で試していたところ、グーグルのストリートビューでこの名前が不明な神社の脇から遠くに筑波山が見えてる。
?と思ってここから筑波山まで直線を引くと、なんと筑波山と香取神宮を結ぶ直線上にこの不明神社があるではないか!
だからどうだっていうの?と問われると、確かにたまたまかもしれないし、何らかの人為的な所作でここに祠を建てた経緯があるのかもしれない。
明日は常陸高浜と常陸藤沢の地図を買ってあれこれ眺める予定。
神社探索は中々奥が深いですね。

うさぎ小屋さま
こんばんは。

さてさて、大分訳のわからない世界に入りこんでしまわれましたね。
神社は山ほどあるので色々な仮説も立てられますね。

名の無いような神社もそれを支えてきた人たちがいますし、五穀豊穣、漁業安全など様々な願いがあるので
それが香取神宮や筑波山・加波山などとどのような心のつながりがあったのかは測り知ることができませんが。
想像をめぐらしてみるだけでも楽しそうですね。

今のように明かりが十分でなく、月や星の位置関係なども多分に影響しているのでしょうね。
江戸崎不動院にいた天海僧正が日光に家康の墓を作ったのは何か意味があるかもしれないですね。

筑波山からそのまま延長すると日光?
No title
本日、楯縫神社~陸平貝塚~大宮神社~霞ヶ浦湖畔と探索しました。
ブログの写真で見た実物が目の前にあるというのは感動しますね。
楯縫神社は丘の上にあって遠くまで見通せる場所を選んだのが良くわかります。
大宮神社は志太の方向は良く見えたけど霞ヶ浦の方向へは林が邪魔で湖畔が見えなかった。
次に霞ヶ浦湖畔で地図上の名称不明の神社を探したところ、「茨城四十五景 馬掛不動堂」の石碑を発見した。
湖畔からこの不動堂専用の道路が設けてあり、この不動堂の鳥居の柱に三角点があります。
不動堂からは視界を妨げるものが無ければ筑波山が良く見える位置だけど残念ながら樹木が邪魔で筑波山は見えません。

この不動堂と筑波山を結ぶ直線を南東45°へ延長すると香取神宮へぶつかると思ったけど良く調べると香取神宮のちょい西にある又見神社にぶつかります。
また、木原の楯縫神社から南東へ45°の線を引くと大戸神社にぶつかります。
45°の線に意味があるのかどうか好奇心を刺激されます。

うさぎ小屋さん
こんばんは。

> ブログの写真で見た実物が目の前にあるというのは感動しますね。

見る人によっても新しい発見がきっとあるでしょうから現地に行って見ることは気持ちものってきますね。

> 楯縫神社は丘の上にあって遠くまで見通せる場所を選んだのが良くわかります。
> 大宮神社は志太の方向は良く見えたけど霞ヶ浦の方向へは林が邪魔で湖畔が見えなかった。

この大宮神社は場所が移されたものかもしれませんね。
ゴルフ場開発で陸平貝塚も危なかったという話もあります。

> 次に霞ヶ浦湖畔で地図上の名称不明の神社を探したところ、「茨城四十五景 馬掛不動堂」の石碑を発見した。

こんなのがいいですね。とても興味深いですよね。
馬掛不動堂を検索すると興味深い記事がたくさんありました。

この辺りでは馬掛(まがき)は牛込とともに気になる地名です。

> この不動堂と筑波山を結ぶ直線を南東45°へ延長すると香取神宮へぶつかると思ったけど良く調べると香取神宮のちょい西にある又見神社にぶつかります。

まああまり45度の角度の意味はわからないです。何か意味はあるのですか?
地軸の傾きを考えると太陽の動きとはあまり関係なさそうですが・・・。

陰陽道では?

管理者のみに表示