神善寺(3)-益田神社、日之本八幡神社
神栖市波崎舎利にある室町時代に創建された「神善寺」を見たあと、地図にはすぐ北に2つの神社が並んでいたので立ち寄ることにしました。
まずは神善寺の隣の神社です。
YAHOOやGOOGLE地図には「益出神社」と書かれています。
しかし茨城県神社庁には「益田神社」という名前の神社があり、この神社をさすようです。
神善寺の正式名称は「益田山神善寺」ですので、この神社はもともとは神善寺と一体だったのではないかと思います。
神仏分離で別れたものでしょう。

このような入口鳥居にも名称額は掲げられていません。

ここにはこのような古い石灯篭が置かれていましたが、ここには狛犬がおりません。
昨日書いた神善寺に狛犬がいました。
確かに寺にも狛犬がいても不思議はありませんが、神社の方が一般的に思います。

こちらが神社本殿。
立派な屋根です。またまわりを柵で囲っています。

入口に龍の彫り物。

祭神や神社のいわれなどの資料はわかりませんが、かなり古く舎利地区の氏神として古くから慕われていたようです。
祭神は大己貴命で、宝暦2年(1752)の神社棟札に推古天皇の時代に建立されたと記されているとのことですがあまりはっきりしません。
また、神栖市の有形文化財にこの神社の獅子舞が毎年2月に奉納されているとの記事がありました。
結構こじんまりとした祭りのようですが江戸時代から230年以上続くもののようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
関東農政局HP記事:(こちら)
茨城県神栖市の舎利地区には、町指定無形民俗文化財として受け継がれている獅子舞があります。
この獅子舞の始まりは、約200年前の天明3年(1783年)にさかのぼります。
その年は、浅間山が噴火し、その火山灰が波崎にまで降り注ぎ、ひどい凶作になりました。
農民は「神様の怒り」だと思い、その怒りを鎮めるため、千葉県から観世流獅子舞を導入し、益田神社に奉納しました。
これが、大鳥祭獅子舞の始まりだといいます。
獅子舞は、たて髪のない、め獅子で、他には見ることのできない優雅な舞いが特徴です。
現在では、2月2日と9月1日の年2回、五穀豊穣、大漁を祈願して、その舞が益田神社に奉納されています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてその少し北側にもう一つ神社があります。「日之本八幡神社」とあります。



境内は深い樹叢で、みなタブの木のようです。神善寺の大タブはこの大親分的な存在です。

こちらが神社本殿。


本殿の入口に置かれた大きな雨水桝のマークは「梅鉢」です。
これは菅原道真の家紋としてよく使われていますのでこの八幡様も学問の神様である菅原道真公を祀っているようです。



この神栖市波崎の舎利地区は昔の地形はどのような場所だったのか?
1300年前の常陸風土記では童女(うない)の松原の記述が参考になります。
香島郡(かしまのこおり)のところで
「軽野の南に童子女の松原がある。むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。」
「「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記)
とある。
軽野より南の一里は昔は「海上郡」であったという。
そしてこの一里の中心辺りにこの舎利地区がある。
こうして見て歩くときに昔の事柄を時々並べて見ていると何故か初めての地でもどこか懐かしくもなる。
このタブの木?の樹叢なども鹿島神宮の摂社である「沼尾神社」などを思い浮かべる。(記事はこちら)
まずは神善寺の隣の神社です。
YAHOOやGOOGLE地図には「益出神社」と書かれています。
しかし茨城県神社庁には「益田神社」という名前の神社があり、この神社をさすようです。
神善寺の正式名称は「益田山神善寺」ですので、この神社はもともとは神善寺と一体だったのではないかと思います。
神仏分離で別れたものでしょう。

このような入口鳥居にも名称額は掲げられていません。

ここにはこのような古い石灯篭が置かれていましたが、ここには狛犬がおりません。
昨日書いた神善寺に狛犬がいました。
確かに寺にも狛犬がいても不思議はありませんが、神社の方が一般的に思います。

こちらが神社本殿。
立派な屋根です。またまわりを柵で囲っています。

入口に龍の彫り物。

祭神や神社のいわれなどの資料はわかりませんが、かなり古く舎利地区の氏神として古くから慕われていたようです。
祭神は大己貴命で、宝暦2年(1752)の神社棟札に推古天皇の時代に建立されたと記されているとのことですがあまりはっきりしません。
また、神栖市の有形文化財にこの神社の獅子舞が毎年2月に奉納されているとの記事がありました。
結構こじんまりとした祭りのようですが江戸時代から230年以上続くもののようです。
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関東農政局HP記事:(こちら)
茨城県神栖市の舎利地区には、町指定無形民俗文化財として受け継がれている獅子舞があります。
この獅子舞の始まりは、約200年前の天明3年(1783年)にさかのぼります。
その年は、浅間山が噴火し、その火山灰が波崎にまで降り注ぎ、ひどい凶作になりました。
農民は「神様の怒り」だと思い、その怒りを鎮めるため、千葉県から観世流獅子舞を導入し、益田神社に奉納しました。
これが、大鳥祭獅子舞の始まりだといいます。
獅子舞は、たて髪のない、め獅子で、他には見ることのできない優雅な舞いが特徴です。
現在では、2月2日と9月1日の年2回、五穀豊穣、大漁を祈願して、その舞が益田神社に奉納されています
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そしてその少し北側にもう一つ神社があります。「日之本八幡神社」とあります。



境内は深い樹叢で、みなタブの木のようです。神善寺の大タブはこの大親分的な存在です。

こちらが神社本殿。


本殿の入口に置かれた大きな雨水桝のマークは「梅鉢」です。
これは菅原道真の家紋としてよく使われていますのでこの八幡様も学問の神様である菅原道真公を祀っているようです。



この神栖市波崎の舎利地区は昔の地形はどのような場所だったのか?
1300年前の常陸風土記では童女(うない)の松原の記述が参考になります。
香島郡(かしまのこおり)のところで
「軽野の南に童子女の松原がある。むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。」
「「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記)
とある。
軽野より南の一里は昔は「海上郡」であったという。
そしてこの一里の中心辺りにこの舎利地区がある。
こうして見て歩くときに昔の事柄を時々並べて見ていると何故か初めての地でもどこか懐かしくもなる。
このタブの木?の樹叢なども鹿島神宮の摂社である「沼尾神社」などを思い浮かべる。(記事はこちら)
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