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みちの駅多古(2)

 千葉県多古町は「多古米」が有名で、家の近くのスーパーでもおにぎりやお弁当に多古米を使用している。

ここに「みちの駅」があるが、1年前の6月に1度訪れているのだが、先日また行ってきた。

多古町に残されている55000年前のものといわれる木舟を見ておきたいとまたこの町を訪れた。
こちらはまた明日にでも紹介したい。

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銚子に行く途中での寄り道なのだが、やはり時間が足りなくなってしまった。
こちらから行くとかなり遠い。

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あじさい館という名前がついており、紫陽花祭りをやっていた。

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この町の中を流れる「栗山川」流域はとても歴史の古い場所だ。
縄文人がたくさん住んでいたと考えられるし、弥生人もこの川を遡って内陸に進んで行ったと考えられるように感じる。

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この栗山川の名前の由来は「栗」の木が茂るという考え方も確かにあるだろう。
縄文人が栗を食べたと考えればそれもありうるのだが、どうしても「句麗」との関係を捨てきることができない。

栗山川は九十九里に注いでいるが、そこは横芝光町で「屋形」という地名である。
横芝光町というのは2006年の平成の大合併で山武郡横芝町と匝瑳郡光町が合併してできたが、このように山武郡と匝瑳郡の二つの郡が一緒になるのは珍しい。

また匝瑳郡は下総国であり、山武郡(さんぶぐん)は山辺郡(やまべぐん)と武射郡(むしゃぐん)が明治30年に合併してできたが、元々は上総国にあった。

そのため上総国と下総国が一緒になったという非常に珍しい場所だと思う。
その境界がこの栗山川なのではないか。
屋形という地名も「館」という意味だと思うが、これも平氏の祖である高望王が宇多天皇から「平氏」姓をもらって(889年)上総介としてやってきたのがこの「屋形」であり、高望王が任期を終えて帰京した時に子供の「平良兼」がこのあたりをおさめていった。

そのため全てこの辺りから関東の領地が開拓されていったことになる。
上総介というのでもっと上総国国府である「市原」辺りかと思っていたが全く離れている。

これと縄文人のかかわりなどがイメージとしてまだ湧いてこない。
もう少し調べて見たら何か分かるのかもしれないが、1年前も同じようなことを思っていたのでまったく進歩していない。


匝瑳・多古周辺 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/07/03 20:29
コメント
No title
道の駅多古は5月にたまご屋さんコッコの後にちょっと立ち寄りました。GW中で駐車場がいっぱいでした。
http://stk1031.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html
stkさん
結構遠いですよね。
大分あちらこちら回られたのですね。
私は仕事のついでの寄り道です。
連休は混むので出かけません。
コメントありがとうございました。

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