芝山仁王尊(観音教寺)(5)-はにわ博物館
芝山仁王尊(観音教寺)の本殿とならんでコンクリート造りの立派な建物がある。
ここが「芝山はにわ博物館」となっている。

立派な空調の完備した博物館で、その1階が「はにわ博物館」で2階には「仏教関連の絵や像などが展示されている。
はにわ博物館はこの芝山の寺の近くにある殿塚古墳、姫塚古墳から発掘された埴輪をメインに展示している。
内部は撮影禁止だったのでパンフレットをお願いしたのだが、今は切れてしまってないとのこと。
立派な施設であったので残念だ。
見学している間私以外に誰も来なかったのはいかにももったいない。

見学料600円を払って入口から内部へ。
正面にこの辺りで発掘された古代舟が展示されていた。
前に見た多古町の7~8mの立派な舟に比べると、3~4mほどの長さの木片で舟の底の部分といったものであった。
この1Fにはこのほかにも同じような古代丸木舟が全部で3~4点くらい展示されていた。

埴輪はとても立派で馬や人の姿の大きなものが目立った。
本当にこれがこの近くの古墳からこんな状態の良い形で見つかったのだろうかと不思議な気がした。
(もちろん補修復元されてはいるようだ)
この寺からさほど遠くない場所に殿塚姫塚と呼ばれる古墳がある。
この古墳の発掘調査を昭和29年から早稲田大学考古学研究室が中心となって発掘調査をした。
そこから出てきた埴輪があまりにも素晴らしく一躍芝山町を有名にした。
成田空港からこの芝山町を通って横芝光町の九十九里浜までの街道は「芝山はにわ街道」と呼ばれている。
街道途中にはにわのモニュメントがおかれ、公園も埴輪のモニュメントをメインにしている。
現在この博物館にはこの殿塚姫塚古墳(国指定史跡)からの出土品以外にも各地からの保存品も増えて150点ほどのはにわが展示されている。

しかし、この博物館はただ単に埴輪や勾玉などを展示しているばかりではなく、上の写真に載せているように古代との関係を強く打ち出している。
これはここが渡来人による仏教の伝来にも深くかかわっているためだと思う。
この近くを流れる栗山川が昔渡来人たちが住んでいたと伝えられていることに関係しているようだ。
栗は句麗と繋がっていると考えているように思われる。
内部に展示されていた説明文を少し引用したい。
「古代の武射郡十二郷のなかには巨麻(こま)郷があり、現在の松尾町古和地区などに比定されている。また、「続日本紀」の霊亀2年に上総など七国の高麗人(こまびと)1799人を武蔵国に移住させ高麗郡を置くとも書かれている。
高麗郡は現在の埼玉県日高町付近に比定されているが、かつてはこの地に上総郷と呼ばれる集落があったという。
武社国に壮麗な古墳文化をもたらした渡来人たちは、その役割を終えて各地に移住していったのかもしれない。」

2Fは「釈尊館」と命名され、「釈尊御一代」を絵で紐解くように展示物が並べられていた。
日本の仏教というよりはインド仏教のえを見ているような感覚だった。
ここが「芝山はにわ博物館」となっている。

立派な空調の完備した博物館で、その1階が「はにわ博物館」で2階には「仏教関連の絵や像などが展示されている。
はにわ博物館はこの芝山の寺の近くにある殿塚古墳、姫塚古墳から発掘された埴輪をメインに展示している。
内部は撮影禁止だったのでパンフレットをお願いしたのだが、今は切れてしまってないとのこと。
立派な施設であったので残念だ。
見学している間私以外に誰も来なかったのはいかにももったいない。

見学料600円を払って入口から内部へ。
正面にこの辺りで発掘された古代舟が展示されていた。
前に見た多古町の7~8mの立派な舟に比べると、3~4mほどの長さの木片で舟の底の部分といったものであった。
この1Fにはこのほかにも同じような古代丸木舟が全部で3~4点くらい展示されていた。

埴輪はとても立派で馬や人の姿の大きなものが目立った。
本当にこれがこの近くの古墳からこんな状態の良い形で見つかったのだろうかと不思議な気がした。
(もちろん補修復元されてはいるようだ)
この寺からさほど遠くない場所に殿塚姫塚と呼ばれる古墳がある。
この古墳の発掘調査を昭和29年から早稲田大学考古学研究室が中心となって発掘調査をした。
そこから出てきた埴輪があまりにも素晴らしく一躍芝山町を有名にした。
成田空港からこの芝山町を通って横芝光町の九十九里浜までの街道は「芝山はにわ街道」と呼ばれている。
街道途中にはにわのモニュメントがおかれ、公園も埴輪のモニュメントをメインにしている。
現在この博物館にはこの殿塚姫塚古墳(国指定史跡)からの出土品以外にも各地からの保存品も増えて150点ほどのはにわが展示されている。

しかし、この博物館はただ単に埴輪や勾玉などを展示しているばかりではなく、上の写真に載せているように古代との関係を強く打ち出している。
これはここが渡来人による仏教の伝来にも深くかかわっているためだと思う。
この近くを流れる栗山川が昔渡来人たちが住んでいたと伝えられていることに関係しているようだ。
栗は句麗と繋がっていると考えているように思われる。
内部に展示されていた説明文を少し引用したい。
「古代の武射郡十二郷のなかには巨麻(こま)郷があり、現在の松尾町古和地区などに比定されている。また、「続日本紀」の霊亀2年に上総など七国の高麗人(こまびと)1799人を武蔵国に移住させ高麗郡を置くとも書かれている。
高麗郡は現在の埼玉県日高町付近に比定されているが、かつてはこの地に上総郷と呼ばれる集落があったという。
武社国に壮麗な古墳文化をもたらした渡来人たちは、その役割を終えて各地に移住していったのかもしれない。」

2Fは「釈尊館」と命名され、「釈尊御一代」を絵で紐解くように展示物が並べられていた。
日本の仏教というよりはインド仏教のえを見ているような感覚だった。
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