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大儀寺(2)-仏頂禅師

大儀寺の歴史を少し調べてみました。

慶長年間(1596~1615)華蔵曇下(けぞうどんげ)和尚が草庵を開き,その後,元和2年(1616)阿玉村の領主,荒野右京進が梅易陽禅師を迎えて法花山大儀庵にし、その後六代を経て廃庵となりったそうです。

一方、近くの札村出身の仏頂禅師が、延宝8年(1680)に鹿島の根本寺を辞して、貞享元年(1684)に荒廃していたこの大儀庵に入り,復興に努力し,寺名も宝光山大儀寺と改めたとあります。

仏頂禅師は大儀寺の少し南方の札村で寛永19年(1642年)に生まれました。
そして8歳で根本寺の冷山和尚のもとに入り禅の世界に入ります。

その後各地を旅し、33歳で根本寺の住職を引き継ぎます(1674年)。

根本寺の冷山和尚はその後、江戸深川に草庵(臨川庵:りんせんあん)を結んでiいたようです。
鹿島の根本寺の寺領50石を鹿島神宮に取られそうになり、仏頂禅師がこの江戸臨川庵(現臨川寺)に逗留して、寺社奉行に訴えます。(1675年頃?)。

この訴訟争いは7年ほどかかり勝訴がほぼ決まった天和2年(1682)だといいます。
そしてこの寺領が根本寺に戻されると仏頂禅師は根本寺の住職を頑極和尚に譲ります。

そしてもう少しの間この深川にいたようですが、根本寺からこの山に中の荒れ果てた「大儀庵」を復興して寺として建てなおしたのでしょう。

一方芭蕉は深川の草庵に移ったのは1680年の冬ですから、この深川での二人の交流は約2年程だったようです。

芭蕉はこの仏頂禅師に禅を習い、逆に芭蕉は俳句を教えたと言われています。

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この大儀寺の山門を入って正面に寺の本堂?には「月見寺」と額がかかっています。

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本堂から山門を眺めます。
右手に薬師堂や梅の木。
なかなか良い眺めです。

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この寺の本尊は十一面観音だそうです。こちらに置かれているのでしょうか?

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薬師堂の右に仏頂禅師の像と芭蕉句碑が置かれています。

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句碑には芭蕉がこの寺で詠んだ「寺に寝て まこと顔なる月見哉」と芭蕉(桃青)の句が彫られています。

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薬師堂の裏手は竹林やお墓に色々な句碑が立っていますが、その中に仏頂塔(お墓?)が置かれています。

さてこの仏頂禅師についてはむかし栃木県大田原市の雲巌寺を訪れた時に、この地にこの仏頂禅師が結んだ草庵があったことを思い出して奥の細道の旅の途中に立ち寄っている。(こちら

雲巌寺(雲岩寺)での句:(奥の細道)
竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば (仏頂和尚)
木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立 (芭蕉)

この雲巌寺の奥に五尺(約1.5m)程の小さな草庵に禅の修行をするために仏頂禅師が暮らしていたことがあった。
そして江戸で芭蕉と知り合った時に上の句を詠んだものと思います。
芭蕉にはこの草庵での暮らしが強く印象に残り、どんなところか立ち寄ったのでしょう。


この寺はまわりを竹林で囲まれ、そこにたくさんの石の句碑が置かれていました。
この景色を見て芭蕉の句の意味も、もう少し考えなおしてみたくなりましたので明日もう少し続きを書きます。

鉾田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/07/22 20:12
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