大儀寺(3)-句碑
茨城県鉾田市阿玉にある芭蕉月見の寺「大儀寺」の紹介の続きです。
本当は前回で終わる予定でしたがもう少し書いておきたくなりました。
それはこの寺を訪れて、芭蕉が二人の門人(曾良・宗波)を連れて3人でこの山寺を訪れた時のことを想像してみた時に浮かんできた景色です。
少し、芭蕉の書いた鹿島紀行の内容を考えて見ないとなりません。
貞享4年(1687)8月14日に翌日が名月であるので、この名月を禅の師と仰ぐ仏頂禅師の住む鹿島で一緒に眺めようと朝早く深川を舟で旅立ちます。
小名木川、新川を経て行徳まで1~2時間くらいでしょうか。そこから木下(きおろし)街道を利根川のほとりの布佐まで歩きます。
距離として5里(20km)以上ありますから5~6時間くらいかかったでしょう。
途中で鎌ヶ谷から白井へ出て筑波山が紫に輝く風情で謳われていますので天気は良かったのでしょう。
布佐は江戸時代初期頃までは水戸街道もここで利根川を渡っていますので船着き場としてもにぎわっていたと思います。
しかし、布佐には網代があり、利根川を遡ってくるサケをここで網で捕まえて江戸に運ぶ漁師がたくさんおりました。
芭蕉たちもこの網代の漁師の家に宿泊しようとしました。
しかし生臭い匂いが漂っていて眠れません。仕方なく夜中に舟で鹿島に向かおうと出発します。
鹿島へは布佐から佐原へ利根川を下り牛堀、潮来に水路でそのまま渡ります。
潮来から鹿島へも舟で行くことはできたと思いますが、外逆浦を避けて潮来から陸路を少し歩いたかもしれません。
いままで鹿島に渡ったのなら鹿島の大船津に舟で渡ったと思いこんでいましたが、この大儀寺が北浦の鉾田方面に大分行った場所にありますので大船津を通ったとしても更に北の「札」(仏頂禅師の生れた村)辺りまで舟で行ったのではないかと思います。
夜中に出発して鹿島には朝早く着いたのでしょうが、外は生憎の雨がふっていました。
今夜の名月は見られそうもない・・・・ そんな思いが3人の頭によぎったことでしょう。
・・・・ここからは鹿島紀行の一部を抜粋してみましょう・・・・・・
「昼より雨しきりに降て、月見るべくもあらず。麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。」
・・・夜中からの船旅で大分つかれていたのでしょう。寺についた3人は、この雨を怨みながら夜を待つ間仮眠したようです。
「すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。」
・・・中国の詩人杜甫が「深省を発せしむ」(人に深い悟りの心を抱かしめる)と詠んだ心境とこの山の寺の雰囲気が似ていて、心が洗われるようだというような意味か?
「暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。」
・・・暁になり雨も上がり、和尚が皆を起こして、歌詠みを始めます。
さて、その時に月は見えたのでしょうか??
「月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。」
・・・・解釈は分かれますが、詠んだ歌からは残念ながら名月は見えなかったのではないでしょうか。
でもはるばる月見のためにここまで来たのだから句を詠もうとしますが、皆なかなか詠むことができなかったようです。
でもここは禅の心をもって名月の歌を詠みあったことがうかがえます。
おりおりにかはらぬ空の月かげも
ちぢのながめは雲のまにまに 和尚
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺にねてまことがほなる月見かな 桃青
雨にねて竹おきかへる月見かな 曽良
月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波
(桃青は芭蕉のことです)
和尚の歌と次の芭蕉の歌からは雲が早く流れゆくの間に月が垣間見えるような歌です。
しかしその他の句はみな月見ではあってもまだ雨のしずくが残る禅寺の風情をうたっています。
この大儀寺に来る前にはこの月見で月も垣間見えたとという思いがしていましたが、ここに来るときっと月は見えなくとも心象として月見ができたのだという思いがしてきました。

北側の裏門。車では今はこちらから入る。この門を入ってすぐ左手に駐車場がある。

寺の手前に大きな青々として竹林が広がる。

俳句の里となっています。

布袋様。これも俳句愛好者から奉納された物?

竹林の中にはたくさんの俳句を彫った石碑が置かれています。

これは全て愛好家たちが自分の俳句を石材店の方にお願いして彫ってここに置かせてもらったもの。

句碑は100基以上あります。





本当は前回で終わる予定でしたがもう少し書いておきたくなりました。
それはこの寺を訪れて、芭蕉が二人の門人(曾良・宗波)を連れて3人でこの山寺を訪れた時のことを想像してみた時に浮かんできた景色です。
少し、芭蕉の書いた鹿島紀行の内容を考えて見ないとなりません。
貞享4年(1687)8月14日に翌日が名月であるので、この名月を禅の師と仰ぐ仏頂禅師の住む鹿島で一緒に眺めようと朝早く深川を舟で旅立ちます。
小名木川、新川を経て行徳まで1~2時間くらいでしょうか。そこから木下(きおろし)街道を利根川のほとりの布佐まで歩きます。
距離として5里(20km)以上ありますから5~6時間くらいかかったでしょう。
途中で鎌ヶ谷から白井へ出て筑波山が紫に輝く風情で謳われていますので天気は良かったのでしょう。
布佐は江戸時代初期頃までは水戸街道もここで利根川を渡っていますので船着き場としてもにぎわっていたと思います。
しかし、布佐には網代があり、利根川を遡ってくるサケをここで網で捕まえて江戸に運ぶ漁師がたくさんおりました。
芭蕉たちもこの網代の漁師の家に宿泊しようとしました。
しかし生臭い匂いが漂っていて眠れません。仕方なく夜中に舟で鹿島に向かおうと出発します。
鹿島へは布佐から佐原へ利根川を下り牛堀、潮来に水路でそのまま渡ります。
潮来から鹿島へも舟で行くことはできたと思いますが、外逆浦を避けて潮来から陸路を少し歩いたかもしれません。
いままで鹿島に渡ったのなら鹿島の大船津に舟で渡ったと思いこんでいましたが、この大儀寺が北浦の鉾田方面に大分行った場所にありますので大船津を通ったとしても更に北の「札」(仏頂禅師の生れた村)辺りまで舟で行ったのではないかと思います。
夜中に出発して鹿島には朝早く着いたのでしょうが、外は生憎の雨がふっていました。
今夜の名月は見られそうもない・・・・ そんな思いが3人の頭によぎったことでしょう。
・・・・ここからは鹿島紀行の一部を抜粋してみましょう・・・・・・
「昼より雨しきりに降て、月見るべくもあらず。麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。」
・・・夜中からの船旅で大分つかれていたのでしょう。寺についた3人は、この雨を怨みながら夜を待つ間仮眠したようです。
「すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。」
・・・中国の詩人杜甫が「深省を発せしむ」(人に深い悟りの心を抱かしめる)と詠んだ心境とこの山の寺の雰囲気が似ていて、心が洗われるようだというような意味か?
「暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。」
・・・暁になり雨も上がり、和尚が皆を起こして、歌詠みを始めます。
さて、その時に月は見えたのでしょうか??
「月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。」
・・・・解釈は分かれますが、詠んだ歌からは残念ながら名月は見えなかったのではないでしょうか。
でもはるばる月見のためにここまで来たのだから句を詠もうとしますが、皆なかなか詠むことができなかったようです。
でもここは禅の心をもって名月の歌を詠みあったことがうかがえます。
おりおりにかはらぬ空の月かげも
ちぢのながめは雲のまにまに 和尚
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺にねてまことがほなる月見かな 桃青
雨にねて竹おきかへる月見かな 曽良
月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波
(桃青は芭蕉のことです)
和尚の歌と次の芭蕉の歌からは雲が早く流れゆくの間に月が垣間見えるような歌です。
しかしその他の句はみな月見ではあってもまだ雨のしずくが残る禅寺の風情をうたっています。
この大儀寺に来る前にはこの月見で月も垣間見えたとという思いがしていましたが、ここに来るときっと月は見えなくとも心象として月見ができたのだという思いがしてきました。

北側の裏門。車では今はこちらから入る。この門を入ってすぐ左手に駐車場がある。

寺の手前に大きな青々として竹林が広がる。

俳句の里となっています。

布袋様。これも俳句愛好者から奉納された物?

竹林の中にはたくさんの俳句を彫った石碑が置かれています。

これは全て愛好家たちが自分の俳句を石材店の方にお願いして彫ってここに置かせてもらったもの。

句碑は100基以上あります。





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