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鹿島七釜

 大洗磯前(いそさき)神社から鹿島神宮までの間の海岸は鹿島灘に面しており、九十九里のような砂浜もあるが波が荒く、険しい崖の場所もある。

この鹿島灘は大昔には砂鉄の産地でもあるが、塩の産地としてもその歴史が残されている。

そして今でも鹿島七釜と呼ばれる「釜」の付く地名がある。

北から上釜・別所釜・武与釜・高釜・京知釜・境釜・武井釜の七つである。

七つ釜題

地図にその場所を記入した。

海岸にもその名前を冠して呼ばれている場所もある。
汲上別所釜海水浴場、京知釜海水浴場などがあり、夏にはサーファーが集まる。

路線バスのバス停にもいくつかこの地名のところがあるが、やはり国土地理院の地図には全ての地名と集落が載っていた。

釜は鉄釜のことであり、塩を煮詰めるのに使われていました。
鹿島神宮が武人の神を祀っているのもこの地が鉄の産地であったことが大きいのではないかと言われています。

中臣鎌足(藤原鎌足)が鹿島出生説が強いのもこの鉄や釜に関係が深いと考えられているためでもあるように思われます。

前から気になっていた製塩が盛んであったという鹿島灘を地図と写真から少し追ってみます。

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まず汲上別所海水浴場へ。
狭い道を海岸まで行くと砂浜や海に結構人が来ておりました。

この北の大竹海岸やこの辺りの砂浜は湿っていて結構硬く、昔は車ものりいれられたと思いますが、今は手前に停めて砂浜には車はありませんでした。

一般の海水浴客はほとんどなく皆サーフボードを持って楽しんでいました。

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海に突き出しているのは砂の流出を防ぐための防砂堤だと思います。

この別所釜から境釜まで砂浜というところは全てと言ってよいほど塩釜があって、部落ができたと思われます。

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こちらは南部の境釜海岸です。
この浜にはあまり人はおりません。

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鹿島灘はこのように比較的狭い幅で砂浜が続いています。

製塩の話は前に稲敷市の広畑貝塚を紹介した時に書いてことがあります。(こちら

広畑貝塚で発見された製塩土器が恐らくこの周辺では最も古く、今から3000年くらい前の紀元前1000年頃にこお霞ケ浦湖畔(昔は海)で海藻を使って土器で煮て塩を作っていたのが最初のようです。

そして常陸国風土記には、浮島(稲敷市)で「山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる」という記述がある。
風土記が書かれたのは8世紀初頭だが、記述の内容は4~5世紀頃に浮島で製塩で生業を立てる者がいたことになります。

一方鹿島灘の方はどうかというと、恐らく宮城県の塩釜(鹽竈)神社の創建よりも前かもしれないと思い塩釜神社を調べて見た。

塩釜神社(志波彦神社)の記述によれば「鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。」と書かれており、
別宮:塩土老翁神 - 主祭神、左宮:武甕槌神、右宮:経津主神
の3柱を祀る。
まあ謎が多く創建ははっきりしないが、この鹿島と香取から蝦夷征伐が始まり、陸奥国の一宮として建てられたものという。

ではやはり5~6世紀頃にすでに製塩が行なわれていたのだろうか?

文献を調べると文徳実録(貞観13年:871年)に大洗の磯前神社近くの海岸で「海を煮て塩を作る者有り(856年12月の条)」と記録されています。

また鹿嶋市の北部の角折地区に「はななす公園」があり、公園の名前に「長者ヶ浜潮騒」と名前を頭に冠しています。
この長者というのが伝説で伝わる塩で大もうけをした長者(文太長者)というのです。

昔の御伽草子の中の「文正草子(ぶんしょうそうし)」(室町物語)に書かれている内容で、
「むかし、鹿島の大宮司の下男であった文太という男が、主家から追い出されて「つのをかが磯(角折?)」に住みついて、塩焼きを始める。そしてこの塩が味もよく、病にも効くと評判になり倍の値で飛ぶ様に売れたそうだ。
そして長者になり、鹿島大明神に願掛けしてできた2人の娘が関白と帝(みかど)に見染められ、北の方と中宮になった。
これにより文太は大納言までのぼりつめたという。

「文正草子」はこの文太が出世して「文正つねをか」と名乗ったことでつけられた名前である。

卑賤の身分であったものが立身出世をしていく話として室町時代に大いに語られたようだ。

御伽草子は文正草子など室町時代などの物語二十三編を集めたものである。(江戸時代)
鉢かづき、一寸法師、浦島太郎などの話があるがその一番最初がこの文正草子なのである。

さて江戸時代頃の製塩法を見ると、一般には潮の干満を利用して、塩田を満潮時には海面下となり干潮時に潮が引く位置に作る「入浜式塩田法」が瀬戸内海の沿岸を中心に作られましたが、この辺りの塩田は波が高いために「揚げ浜式製塩法」が主に作られたといいます。
これは塩田を波打ち際から30間(54m?)離れたところに作り、海の水を桶で運んだのです。

上の地図には先の文太長者の話の「角折(つのおれ)」と「子生(こなじ)」の2か所を追加しました。
角折の浜は常陸国風土記には
「昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。」
と書かれています。
いっぽう子生の浜については常陸国分寺の鐘がこの浜から府中(石岡)に運ばれたという伝承が残されています。


常陸国の国府があった府中(石岡)までこの鹿島灘の砂浜で造られた塩が運ばれたという「塩街道」の伝承も残されているのです。
興味がありましたら白井啓次さんのふるさと文庫「潮の道余話」(pdf(220kB):こちら)なども読んでみてください。





鉾田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/07/31 20:39
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